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古本夜話200 庄野誠一「智慧の環」と集英社『日本文学全集』

砂子屋書房の刊行書目を見ていて、昭和十三年に庄野誠一の短編集『肥つた紳士』が出されていることにあらためて気づいた。庄野ももはや忘れ去られた作家だと考えられるが、それでも『日本近代文学大事典』には立項がある。それによれば、明治四十一年東京芝に生まれ、慶応大学仏文科中退、水上滝太郎に師事し、『肥つた紳士』に収録されることになる短編を『三田文学』などに発表し、新進作家としての地歩を固めた。だが病を得て療養生活に入り、回復後に文藝春秋社、養徳社に勤めた。戦後は横光利一をモデルとした問題作「智慧の環」を、北原武夫の『文体』に発表している。
日本近代文学大事典

私は庄野と彼が勤めた養徳社について、すでに「甲鳥書林と養徳社」(『古本探究2』所収)を書いている。しかし「智慧の環」のことは戦後編に譲るつもりで、あえて言及しなかったが、砂子屋書房関連の話として、ここで一編を記しておくことにする。また昭和二十三年に発表されたこの中編は庄野、もしくは出版社の思惑もあってか、文学全集に一度は収録が決まったにもかかわらず、後に削除されるという経緯をたどり、それゆえに意識して探さないと読めない作品と化しているからでもある。そのことにふれる前に、「智慧の環」の内容を紹介しておく。

古本探究2

この中編は「重松さんが死んだ。」という一文から始まり、語り手の「僕」=加古が、友人である「君」に向けて、生前の重松との関係を告白していく体裁となっている。「僕」と「君」は共に滝を恩師としていたが、滝は事情があって文学を職業として生きていけなかったので、それが彼の文学の弱点だと重松は見なしていた。また滝にとって文学が生きる喜びだったことに対し、重松にとっては生きる苦悩に他ならず、滝はすでに亡くなっていたが、「僕」は編集者として、その相反する二人の狭間に置かれ、重松に翻弄されることになる。

加古は病を得たことで筆を折り、雑誌社に入り、編集者となり、新人作家とよばれていた学生の頃に訪れていた重松に親しむ機会が多くなった。早くも重松は名実ともに第一級の作家として活躍していた。加古は雑誌の創作欄の担当となり、常に重松を訪れているうちに、重松の文学と文壇、雑誌と編集者に関する細心な処世術、それが文学上の方法論にまで浸透していることに気づく。滝の文学的方法はただ的確に表現することを最上としたが、重松にとっては不適格な表現が重要で、それが読者の心理をあやつる機能ともなるのだ。その根底には素朴なリアリティに対する疑惑に加え、精神を蝕むまでの実感を喪失した夢遊病的なもの、デカダンスが潜んでいた。それを加古は次のように説明している。

 (前略)重松さんは言葉をあやつることが巧みだった。逆説に逆説を重ねて行き、まったく背反する結論を二つ出して人を煙にまくことが得意だったが、(中略)あの人にとって、心理とは探求されるものではなくて、言葉の論理という仮説の上に構成されるものなのだ。だからあの人は、まるで子供が智慧の環でもいじっているような態度で、自分の内奥の声に耳をかたむけることなく、言葉を裏返したりひねったりしながら、ある目的へもって行き、そうして北叟笑んでいるのだ。

この部分からタイトルがとられていることは明らかで、ここに重松の文学の本質が要約され、それが彼の後の行きづまりを招いたことが暗示されている。

加古が重松のそうした本質を身にしみて知らされたのは、京都から上京してきた二人の文学青年と出会ったことからだった。二人は義理の兄弟で、文鳥書房と名乗り、趣味的な文芸書の出版を始めようとしていた。東京に残った兄の安井は重松の中学の後輩にあたり、重松と加古を、京都に戻った弟の結婚式に招待した。この機会に重松の故郷の城下町を訪れることにもなったのである。しかしそこで重松のフィクションを真実と見なす観念世界と、加古の滝譲りのリアリスト的性格がぶつかってしまい、それ以後重松は加古に敵意を示すようになる。

そして戦後の出版の混乱期を迎え、重松の処世術、文学的レトリックと魔法も機能せず、時代から取り残された感じで、訪ねる編集者も少なくなり、かつての面影も失われ、病のために死に至ってしまった。加古はその重松に対し、自分の性格的欠陥から拭いようのない侮蔑を与え、罪を犯してしまったと悟るのだった。

最初に横光にふれているが、ここで「僕」も含めた「智慧の環」の登場人物と出版社モデルをあらためて示しておこう。

  加古 /庄野誠一
  重松 横光利一
  水上滝太郎
  安井兄 / 矢倉年
  安井弟 / 中市弘

前述したように、庄野は文藝春秋社の編集者で、安井義兄弟の文鳥書房は甲鳥書林である。それは矢倉を東京支社責任者、中市を社長とするもので、昭和十四年に京都を本社として始まっている。この義兄弟は前川佐美雄の『日本歌人』に属する歌人で、吉井勇の許に出入りするようになり、中市が下鴨の住人だったことから、吉井によって甲鳥書林と命名されたのである。そして文藝春秋社の社員の石川信夫が『日本歌人』の同人であったことで、甲鳥書林顧問となった。その石川の召集によって、同僚の庄野が後事を託され、昭和十九年に甲鳥書林が企業整備によって、養徳社に統合された際に、出版局長に迎えられるという経緯をたどっている。したがって「君」は石川だと考えていいだろう。養徳社に関しては、本連載でまた言及するつもりだし、『SUMUS』第4号が甲鳥書林を特集していることを付記しておく。

それらのことはともかく、この庄野の「智慧の環」は、横光の死後の翌年に発表されたこともあって、問題を起こし、文壇の一部に誤解を生じさせたらしく、単行本にも集録されなかったようだ。それはずっと尾を引いていたと考えるしかなく、同じ出版社の同じ文学全集でありながら、一方には収録されず、もう一方には収録されているという奇妙な編纂状況を招いたことになる。

具体的にいえば、それは集英社の『日本文学全集』88の『名作集(三)昭和編』においてであり、私の所持する廉価版(昭和四十五年初版、四十七年三版)にはなく、豪華版(同五十年初版、五十四年二版)には収録されている。つまり前者は昭和の名作十七編、後者は十八編の収録で、平野謙の「解説」は、庄野と「智慧の環」の部分の有無を除いて、まったく同じである。それゆえに後者の刊行にあたって、再編集と新たな解説が施され、「智慧の環」が追加されたとは考えられない。

『集英社70年の歴史』を確認してみると、あの赤いB6版290円の『日本文学全集』が刊行されたのは昭和四十一年で、各月二冊のペア配本だったために、四十五年に完結に至ったと見なしていい。とすれば、『名作集(三)昭和編』における廉価版豪華版の「智慧の環」に関する異同は何に起因しているのであろうか。

おそらく当初の『日本文学全集』の企画において、「智慧の環」の収録は早いうちに決まっていて、平野謙もそのつもりで『名作集(三)昭和編』の解説を書いた。ところが刊行の段階になって、庄野が難色を示し、承諾を得られなかったことで、急遽削除して出版するしかなかった。ところが豪華版刊行の際にはその問題が解決されたこともあり、最初の計画通り収録して出版の運びにこぎつけた。これが真相ではないだろうか。

もちろん『集英社70年の歴史』はこれらのことに関して何も語っていないし、他にも証言を見ていないこともあって、このような『日本文学全集』に関する異同はほとんど知られていないと思われる。「智慧の環」という作品についての評価はともかく、横光文学のみならず、文学史や出版史にとっても見逃せない一編であるし、読まれてほしいので、ここで言及してみた。
[f:id:OdaMitsuo:20120504152528j:image:h230]  (『集英社70年の歴史』)
[f:id:OdaMitsuo:20120509125632j:image]  (『日本文学全集』豪華版)日本文学全集 1 (廉価版)

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