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古本夜話231 クロポトキン『相互扶助論』、『飼山遺稿』、泰平館書店

クロポトキンの『相互扶助論』に関する翻訳のことは、もう少し後で論じるつもりだった。だが『山川均自伝』にすでに記されていたように、三徳社のクロポトキン原著、山川訳補『動物界の道徳』が、『相互扶助論』の第一章の「動物の相互扶助」であり、幸徳秋水が前半を訳したこと、また大杉栄による全訳の大正六年の春陽堂『相互扶助論』の第一章下訳も、売文社時代に山川が担当したとあるので、ここで書いておこう。

山川均自伝 相互扶助論(同時代社版)

なぜならば、『相互扶助論』にある次のような言葉は、この著作が刊行されてから一世紀以上過ぎても、さらに生々しく響いてくるように思われるからだ。引用は現代思潮社『大杉栄全集』第十巻所収の大杉訳によるが、一ヵ所だけ訳語をカッコ内に補足する。
大杉栄全集 (現代思潮社版)

 かくして今日では、人は他人の欲望の如何(困窮)にもかかわらず自己の幸福を求めることができまた求めなければならぬものであるという理論が、どこにでも、法律にでも、科学にでも、宗教にでも、勝利を占めている。これが今日の宗教である。そしてこの理論の効能を疑うものは危険な空想家であるとされる。科学は声高く主張する。各人対総人の闘争は自然界と人類社会を支配する主要原則であると。そして生物学は動物界の進歩的進化がこの闘争によって生じたものと説いている。史学も同じような見解を取っている。そして経済学者は、その無邪気な無知から近代の工学や機械のいっさいの進歩をこの原則の「霊妙なる」効果だと信じている。

このような一世紀前のヨーロッパ近代社会状況と国家構造の中において、クロポトキンはそれこそ「危険な空想家」として、動物世界から始まり、古代中世の村落共同体やギルド、都市やコミューンになどにおける相互扶助の歴史をたどる。そしてその制度や風習が近代社会にも根強く残り、産業の進歩もそれに支えられていたことを跡づけ、相互扶助の原理が人間の倫理概念の真の基礎であり、人類のさらなる進化を保障するものだと結論づけている。

有島武郎『相互扶助論』刊行五年後の一九〇七年に、ロンドン郊外に住むクロポトキンを訪れ、この著作に関する有島の質問に対し、クロポトキンが諄々と説明したというエピソードはよく知られているが、彼のそのような思想は有島のみならず、多大なインパクトを伴い、日本へとも伝えられてきたはずだ。

その影響を受けた一人に山本飼山がいる。彼は明治二十三年長野県に生まれ、松本中学に進み、日露戦争に際して非戦論を展開し、『平民新聞』の読者となり、クロポトキン『麺麭の略取』幸徳秋水訳、岩波文庫)を読み、四十二年に社会主義を学ぼうとして早稲田大学に入学する。そして木下尚江、石川三四郎幸徳秋水たちと知り合い、売文社にも出入りし、『相互扶助論』の翻訳を始める。だが大逆事件後における身体的不調、精神的不安、思想的彷徨の中で、大正二年に鉄道自殺を遂げ、その死は周辺に大きな衝撃を与えたとされる。山本の遺した日記、翻訳、書簡、遺言が友人たちによって編まれ、大正三年に『飼山遺稿』(復刻湖北社)として出版されている。
『麺麭の略取』

同書に収録の大学時代の日記を読むと、明治四十五年六月一日のところに、「ミユーチユアルエイドを取り出して久しぶりに読んでみたが興趣禁じ得ないので翻訳を初める」と記され、それ以後も毎日のように翻訳にいそしんでいることが日記にもみえる。飼山はクロポトキンの肖像を下宿の壁に貼っていたらしく、彼の『自伝』(『ある革命家の手記』高杉一郎訳、岩波文庫)などの翻訳も試みていたようだ。ゾラの“Travail ”を読むという記述も十月の日記に続いているが、これは本連載195で言及した飯田旗軒訳『労働』はまだ出ていないので、堺利彦訳の『労働問題』であろう。
ある革命家の手記

飼山訳の『相互扶助論』は第四章まであるが、『飼山遺稿』に二段組八十ページにわたって収録され、同書の半分以上を占め、その訳は端正なものなので、大杉訳で引用した最後の部分まで進めてほしかったと思わせる。編者の深澤白人は「相互扶助論“Mutual Aid ”の全訳出版は、故人生前の希望であつたが、惜しい事に完成に至らなかつた」と付記している。そのことをふまえても、既述したように山川均による『相互扶助論』第一章にあたる『動物界の道徳』の翻訳が先行していたにしても、この飼山訳が最初のまとまった『相互扶助論』の翻訳だと見なしていいだろう。山本はこの翻訳と日記によって、社会運動史と翻訳出版史に名前を残したことになる。

[f:id:OdaMitsuo:20120806161633j:image:h130](『飼山遺稿』湖北社版)
さて最後になってしまったが、『飼山遺稿』の発行者は藤宮吉之助、発行所は泰平館書店である。この泰平館は本連載203で既述した海外文芸社の「海外文芸叢書」などの発売を中興館と兼ねていた版元で、その「叢書」の大正二年刊行の『七死刑囚物語』の巻末に一ページ広告が掲載され、それによれば、「出版部」は「時世の要求に従ひ、汎く新進諸名家に依託し、文芸・理・化・英・数・其他学芸上師範となる良書を刊行し、読書界に貢献するところあらんとす、乞ふ愛読を給へ」とある。また「販売部」も同様に告知され、各版元との特約による廉価な取次、及び絶版、古本の注文にも応じる旨が謳われているし、印刷所も兼ねていたようだ。

発行所をともにする中興館は長野と早稲田人脈で結びついていたので、泰平館もそれに連なる出版、取次、印刷所と考えられる。そのような関係から寄付は金も多く集まらなかったにもかかわらず、泰平館が、『飼山遺稿』の印刷と出版を引受けたのではないだろうか。編者の深澤は「序」において、「一切を挙げて書肆に一任しやうといふ事に決し、玆に泰平館主人の同情によつて同館で出版を引受けらるゝ事になり」と述べている。だがその泰平館主人=藤宮吉之助のプロフィルはつかめない。

なお、『飼山遺稿』の日記の伏字部分を起こした『定本飼山遺稿』(銀河書房、一九八七年)が出されているようだが、こちらはまだ入手に至っていない。

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