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古本夜話272 近代文芸社『現代詩の作り方研究』、松要書店、巧人社

四六判布装、箱入の『現代詩の作り方研究』という五百ページほどの本がある。奥付には昭和四年九月六版発行、定価二円二十銭、著作者は富永直樹、発行者は松浦一郎、発行所は近代文芸社で、その住所は大阪市東区博労町と記されていた。それは八人の共著であり、内容は次のようなものだ。

「現代詩歌概論」  福士幸次郎
「現代詩の諸派」  霜田史光
「日本現代詩史」  川路柳紅
「新詩の本質と創作の実際」  白鳥省吾
「小曲の本質と創作の実際 生田春月
「童謡の意義及び作法」    西條八十
「詩劇の本質と創作の実際」  福田正夫
「民謡の価値及びその発達」  野口雨情

錚々たるメンバーが揃っているのだが、そこに著作者とある富永直樹の名前はない。すでにおわかりと思うが、富永は本連載263で言及した新詩壇社の発行者と同一人物なので、この『現代詩の作り方研究』は新詩壇社から、大正時代に出版された一冊だと考えられる。おそらく新詩壇社が破綻し、紙型や著作権が近代文芸社へと移り、それを示すために、著作者として冨永の名前が掲げられているのだろう。

しかし版元の近代文芸社は脇阪要太郎の『大阪出版六十年のあゆみ』や湯川松次郎の『上方の出版と文化』にも見えておらず、ずっとわからないままであった。ところが『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』を再読していると、昭和十年頃の大阪方面の業界人リストに松要書店が挙げられ、「大阪の業界の第一人者、近代文芸社、巧人社の出版社名で辞書、刀剣の本、美術書など幅広い出版活動をしておりました。一人息子の一郎氏が担当しておられたと聞いております」という言が付されていた。

そしてその上に昭和八年の巧人社版『新辞林』の奥付掲載があり、発行者は松浦一郎、発行所は巧人社、発売所は近代文芸社と表記され、三者の住所が同一であることから、巧人社、近代文芸社、松要書店は出版社や取次や書店を、各出版物によって役割分担しているのではないかと推測できた。その辞書の巻末広告には絵画の描き方の本や各種支那語学習書が並び、また『三十年の歩み』の「特価本資料」のところには、巧人社の出版物として『大日本刀剣新考』『陶磁』『盆石』『祝詞作法』などが掲載されていた。これらも著作権や紙型を買収しての出版だと考えられる。したがって『現代詩の作り方研究』もそのような一冊だと判断できよう。

特価本、見切本業界は出版社の集中する東京から始まっているが、明治末から大正にかけて、月遅れ雑誌や講談本や立川文庫のような様々な文庫本を扱うようになって、一般の書店だけでなく、地方の古本屋、貸本屋、荒物店、玩具店、露店商と全国的に広がっていった。その時期に大阪の業界も形成され始めたのであり、昭和九年の「全国見切本数物商一覧」には、松要書店の他に大阪の業者として、村田松栄館、福井善松堂、前田大文館、松浦忠文館、榎本法令館、吉田博潮社、三島太陽社がリストアップされ、東京に続く一大勢力に成長していた事実を知らしめている。そして「関西重鎮松要さん」という一ページの紹介があるので、それを引いてみる。

 戦前、戦後を通じて大阪の特価本畑の創始者であり親分的存在であった松要さんこと松浦貞一氏は「まず働け!!」が口ぐせのようであった。(中略)
 また振り手の名手として名高く、松要さんが振り台に上がると、品物が自然に生きてきて、買い手の声はその呼び掛けに応じて誘発されてしまいました。百冊売ればいいものが、三百、五百と現物が動き出してしまう、不思議な魔力をもっていました。

後半の記述に関しては若干の説明が必要だろう。特価本、見切本業界は大正十三年に東京地本彫画営業組合から東京書籍商懇話会に改称され、関東大震災後の復旧に向かって進み出した。そして円本時代の膨大な残本の処理を市会を通じて行い、業界が復興するにつれて、昭和五年頃から様々な市会が開かれるようになり、関西勢力も加わって新進気鋭の若手業者たちの市会も始まった。

その一人が松要で、市会の「振り及び開札」、つまり進行役を務めるようになったのである。おそらくこの市会の隆盛につれ、紙型を利用した多くの「造り本」が出品されるようになったのだろう。巧人社や近代文芸社はそれらの出版社名であった。しかし松浦一郎の不慮の死によって、二社の出版活動は停止したようだ。

それでも戦時下の国策取次の日配の成立を迎え、大阪博労町の松要書店は日配の博労町営業所となり、関西の業界はここに統合集約された。その初代所長は松浦要一であり、日配の関西ブロックの営業を担当した。だが昭和十八年に入ると、品不足がひどくなり、各営業所が日配本店に吸収されるにあたって、博労町営業所も廃止され、建物は松要書店に返還されたという。

一方で東京の外神田営業所の所長を務めたのは河野成光館の河野清一であり、帝国図書普及協会の坂東恭吾とともに、松要たちは特価本業界の東西の巨星と称される存在であった。これらの松要や河野の処遇を考えてみても、日配による出版社や取次の統制が、出版業界のアウトサイダーと位置づけられていた特価本、見切本業界も例外でなかったこと、及び無視できなかったことを伝えている。

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