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古本夜話282 錦城出版社、大坪草二郎、太宰治『右大臣実朝』

前回の崇文館の藤谷芳三郎や立川文明堂の立川が経営に関わった大阪の出版社についても書いてみる。

それは錦城出版社で、湯川松次郎の『上方の出版と文化』の中にも出てくるのではないかと期待していたが、まったく言及されていなかった。そのために脇阪の『大阪出版六十年のあゆみ』における錦城出版社に関するわずかな既述から始めるしかない。錦城出版社に対する湯川と脇阪の関心の少なさは、二人がまったく関わっていなかったことに起因すると思われる。まずは脇阪の言を引く。そこで「出版業は、自己の経営する社以外に、協同出版社を起こしては失敗に終る」という実例の一社として、彼は錦城出版社を挙げている。

 錦城出版社 岡本政治社長となり、立川、藤谷氏が経営していたが、この社も大阪出版社の多数の統合体であった。暫くにして金融上行づまり経営不能の寸前となったが、企業整備の際、増進堂が併合して解消した。

この記述には若干の説明が必要だろう。明治二十三年に岡本増次郎は赤本出版や取次の岡本増進堂を創業し、道頓堀に店を構えた。岡本の妻の弟の立川熊次郎が店員になり、三十七年に独立し、後に立川文庫で名を馳せる立川文明堂の看板を掲げた。ここに名前が挙げられている岡本政治と立川はそれらの二代目で、政治は大正十四年にドリルなどの学習参考書の出版を、受験研究社の名前で立ち上げている。藤谷も前述したように、崇文館の二代目であろう。また企業整備とは戦時中の日配下における出版社の統合で、増進堂が錦城出版社を吸収したことをさしている。錦城出版社の創業年は不明だが、岡本増進堂、立川文明堂、崇文館といった大阪の有力版元、取次が協力して興した出版社ということになる。だが脇阪の言に従えば、「暫くにして金融上行づまり経営不能の寸前となった」。

それならば、この錦城出版社とはどのような本を刊行していたのか。私が所持しているのはこの二冊だけだが、それらにふれてみる。一冊は山中峯太郎の『日本的人間』で、四六判でありながらも「錦城新書」と銘打たれ、昭和十七年に初版五千部が刊行されている。発行者は大阪市西区阿波堀通の岡本政治、印刷者も同じ西区の井下書籍印刷所である。しかしこれらの他にも東京品渡所として神田区神保町、編輯部として麹町区永田町の住所が記され、印刷製本は大阪、編集は東京で行なわれていたことがわかる。

つまり脇阪の日本出版社や湯川の湯川弘文社と同様に、岡本増進堂グループも東京に進出しようとして、錦城出版社を創立したのではないだろうか。おそらくこれらの大阪の出版社の動向は、創元社の東京での成功と活躍に影響されたと思われる。『日本的人間』の巻末広告には九冊の「錦城新書」、山岡荘八の農村問題をテーマとした小説『新しき奔流』などの新刊書五冊、尾崎士郎の短編集『残燈』といった四冊の文芸書も掲載され、錦城出版社が文芸書を主体としていることがうかがわれる。

右大臣実朝 (『右大臣実朝』所収、ちくま文庫) 右大臣実朝 (『正義と微笑』所収、ちくま文庫)

(藤田嗣治の装丁本)
実はこれら以外にも、近代文学において重要な作品が刊行されている。それらは太宰治の『正義と微笑』と『右大臣実朝』で、いずれも藤田嗣治の装丁で、昭和十七年と十八年に続けて出版されている。錦城出版社の本は二冊所持していると前述したが、そのもう一冊は『右大臣実朝』である。太宰については多くの評伝や研究書が出されているが、出版社との関係については新潮社と筑摩書房を除けば、ほとんど明確に語られていない。それでも津島美知子の『回想の太宰治』(人文書院)の中に、かろうじて錦城出版社のことが出てくる。そこで彼女は錦城出版社の東京支配人が大坪草二郎で、太宰に『右大臣実朝』の重要な資料となった鎌倉八幡宮社発行の『鶴岡』源実朝号を贈ったのも大坪だったと書いている。その部分を引用する。
回想の太宰治

 十七年の六月『正義と微笑』が上梓されたあと大坪氏はもう一冊、書きおろし長編を出すことを太宰にすすめてくださった。
 太宰は実朝を書きたい宿望を持っていること、しかし、資料蒐めが困難で執筆にとりかかれないでいることを語った。大坪氏はアララギ派(というよりむしろ根岸派)の歌人である短歌雑誌の幹部であり、八月九日の実朝祭に列席し、『鶴岡』を持っておられたので、これを太宰に贈られた。

このような大坪の資料提供と激励によって、『右大臣実朝』は十八年の三月に脱稿の運びとなり、太宰にとってはこれまでにない初版一万五千部が刊行されたという。

夫人の津島美知子の『回想の太宰治』のこの一節を読み、大坪が錦城出版社の東京支配人ばかりでなく、前述した「錦城新書」の『短歌読本』の著者であることもわかった。『系譜別現代歌壇総覧』(短歌研究社)を繰ってみると、大坪は明治三十三年福岡県生まれで、二六新報記者、『祖国』編集、錦城出版社顧問の経歴に加え、大正十年『アララギ』入会、島木赤彦、岡麓に師事とあり、昭和二十九年に没している。

どのような経緯と事情があって、大坪が錦城出版社の東京支配人になったのかはわからないが、印税を前払いした錦城出版社と大坪の存在がなかったならば、『右大臣実朝』も書かれなかったかもしれないのだ。あのしみ入るような実朝の「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ、人モ、家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」の言葉のヒントは、『鶴岡』の中にあるのだろうか。その『鶴岡』をいつか読んでみたいと思う。

なお富田常雄の『姿三四郎』も錦城出版社から刊行されたのだが、こちらは後述することにしよう。また補足しておけば、錦城出版社統合事情についてはふれていないけれど、『創業80年増進堂・受験研究社』(昭和44年)に出版目録が収録されている。
姿三四郎 (新潮文庫版)

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