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古本夜話296 神谷泰治と古本夜話296 神谷泰治と大京堂

『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の中で一ページが割かれ、そこで紹介されている重要な人物や出版社に関して、ずっと言及してきた。しかしそれらとは別に、異例と思われる四ページにわたって、立項と思い出が語られている人物がいて、それは大京堂書店、趣味の教育普及会、中行社の神谷泰治で、彼の名前は本連載267で一度挙げている。明治二十九年生まれで、昭和三十九年没と記された彼の立項を引いてみる。

 愛知県碧南町南市新川町に生れ十六才で、九段の梁瀬三陽堂で修業。二十二歳のとき神田に大京堂書店を発足させ、出版業・卸業を経営する。関東大震災の前に文部省認定「模範児童文庫」約二百点発行を企画し、二十点を発刊したが震災にて企画を中止する。主な出版物に趣味の法律、洗心録、欺かざる乃記、半七捕物帳、浪六の小説から教養ものや事典もの。創業以来手掛けた出版物は約四百五十種。(後略)

この立項に添えられた神谷清成の「父・神谷泰治の思い出」によれば、新聞広告やダイレクトメールによる出版物の通信販売を主としていたようで、大正時代のポルノグラフィらしい「密封叢書」数十点で百万部を超え、昭和四年に出した『趣味の法律』は生涯忘れられないほどのベストセラーとなり、全国津々浦々にまで売れ、戦後も『万有常識百科事典』が好調で、「百科事典」時代を築いた。また神谷は昭和二十年に設立された出版物卸商業協同組合の代表者を務め、戦後の取次の誕生や手形割引などにも関わっていたとされている。それゆえに『三十年の歩み』においても、特別に顕彰する必要があり、最も多くページが割かれているのだろう。

このことは神谷の組合への貢献もさることながら、『趣味の法律』のベストセラー神話も影響しているのではないだろうか。この『趣味の法律』は『三十年の歩み』に書影が掲載されているが、未見だし、著者である上田保に関しても、ほとんどプロフィルがつかめない。だが村上信彦がそれらをモデルとし、長編小説『出版屋庄平』(教文館、昭和十七年)を刊行していて、私も「村上信彦と『出版屋庄平』」(『古本探究』所収)を書いている。

趣味の法律(『趣味の法律』)古本探究

また小川菊松も『出版興亡五十年』における通販業者への言及で、「中山由五郎氏も『趣味の法律』などは図抜けて成功したものであったが、氏も世の中を甘く見たので、晩年は『出版屋庄平の悲劇』にある如き末路であった」と述べてもいる。
出版興亡五十年

『出版屋庄平』において、庄平が『趣味の法律問答』を二十万部売り、版元の承文社に三十万円の財産を築かせたが、庄平が離れ、没落してしまったエピソード、及び東京屈指の残本整理屋で、通販業と出版を営んでいる大正堂の刈谷と庄平の関係などが描かれている。これらのモデルは、承文社が中山、大正堂の刈谷が大京堂の神谷と考えられる。詳細は不明だが、最初に中山が『趣味の法律』を発行し、それを神谷が引き継いだのではないだろうか。特価本業界においてはよくあることで、それがロングセラーで在り続けていたのかもしれない。

村上は本連載250でふれた村上浪六の息子であり、特価本業界が『浪六全集』の出版に携わっていたことを通じて、この業界のメカニズムを承知していたことになり、『出版屋庄平』を構想したと思われる。また神谷が浪六を手がけているのは前掲の立項にも見えている。ただ残念なことに、書籍の通販の世界を描いたこの長編小説は絶版のままとなっている。

これもまったく偶然であるけれど、最近になって時代舎で、昭和二年に修文社から刊行されている村上浪六の随筆集『毒舌』なる一冊を入手した。その奥付を見ると、発行者は中山由五郎とあった。浪六は特価本業界のスター的著者だったのだろう。

それに、私は以前に趣味の教育普及会版の幸田露伴『洗心録』のことを書いているが、ここでは大京堂の尾山篤二郎篇『短歌新辞典』にふれてみる。尾山に関しては本連載268でも取り上げ、そのプロフィルも提出しているので、ここでは言及しない。この辞典は菊半截判上製本で、本編百四十ページに対し、「附」として「短歌用語索引」「枕言葉通解」六十ページ弱が加えられ、二百ページのコンパクトな辞典を形成している。冒頭に「短歌駸辞典について」の一文が置かれ、「本書は短歌作法と、用語の解釈とを兼用し、其の上に用語索引を附して、用語辞典としての義務も果たしている」との文言が寄せられている。ただ本扉の編者、奥付著作者は尾山篤二郎とあるけれども、中扉には東京短歌研究会編、辞典部分の末尾には同会著作権所有と記載されていることからすれば、尾山はこの研究会に関係していて、名義を貸したと考えてしかるべきだろう。

洗心録 (『洗心録』、至誠堂書店版)

この『短歌新辞典』の初版は大正十四年に恒星堂から出されている。大京堂版は昭和七年発行、同十一年二〇版、定価八十銭とある。恒星堂から大京堂へと至る年月に長いブランクが生じているので、その間に別の版が刊行されている可能性も高い。それらのことはともかく、さらに興味深いのは、奥付裏の「発兌図書目録」で、前述の『趣味の法律』や『洗心録』や『同辞典』の他に、本連載223で取り上げた、やはり特価本業界のスター著者と見られる大町桂月の『模範作文講義及文範』など十六冊が並んでいて、そのうち『哲学辞典』『近代詩辞典』『童謡新辞典』といった辞典類も含まれ、上田や大町の著書も所謂辞典と見なせるから、「造り本」としての半分が実用的辞典に分類できる。

しかもこの「目録」に特徴的なのは、本によって価格が「定価」と「特価」に分けられていることで、辞典でいえば、『哲学辞典』は「特価」、他の三冊の辞典は「定価」となっている。これは「特価」が通販、古本屋ルート、「定価」が取次・書店ルートと流通販売が異なっているからだと思われる。したがって特価本業界の「造り本」市場にしても、複数の流通販売ルートが確保されていたはずで、その先にある読者はさらに多様だったにちがいない。

なおその後わかったことを記せば、『趣味の法律』の著者上田保は、昭和二十二年に大分市長を務めた人物だと思われる。彼は明治二十七年大分郡に生まれ、上京して和仏法律学校に学び、弁護士となり、昭和四年に『趣味の法律』を著わし、ベストセラーとなったようだ。

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