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古本夜話311 久世勇三『漫画と落語のどぼとけ』、霞亭会、大鐙閣

ここでひとまず大阪の出版業界への言及を終えるので、最後にもう一本付け加えておきたい。それは大鐙閣についてである。拙稿の「天佑社と大鐙閣」(『古本探究』所収)、本連載172において大鐙閣と『解放』と新光社の関係、同193でゾラの翻訳を刊行した大鐙閣、同277で碧瑠園=渡辺霞亭の大鐙閣からの出版などで、大鐙閣については様々に書いてきた。
古本探究
大鐙閣と同じく大正時代の大阪を発祥とする出版社で、これも同じように関東大震災によって廃業に追いこまれた天佑社に関しては、経営者の小林政治と天佑社の研究書として、真銅正宏他編『小林天眠と関西文壇の形成典』(和泉書院)が出されたことで、その出版物も含めた全体像が明らかにされつつある。

小林天眠と関西文壇の形成
しかし大鐙閣は、経営者久世勇三が小林の中学の同級生であることは判明しているけれども、その出版物の全貌と『解放』との関係はつかめていない。そのために金尾文淵堂を加え、東京における大阪を出自とする三つの出版社のうちの大鐙閣だけが、出版目録も編まれないままになっている。『解放』は『改造』や『中央公論』とならび称せられたにもかかわらず。

『解放』については『日本近代文学大事典』における立項の最初の部分を引いておく。
日本近代文学大事典

 「解放」かいほう 総合雑誌。第一次(仮称)大正八・六〜一二・九。五二冊。大鐙閣発行。第一次世界大戦後のデモクラシー思想昂揚の中で、「改造」「我等」と相前後して創刊された。吉野作造、福田徳三、麻生久らの黎明会や赤松克磨、佐野学らの東大新人会の運動を背景にして生れた社会主義的色彩の濃厚な総合雑誌である。はじめ編集発行人名義は社員の田中孝治となっている(後略)。

大正九年五月から発行は解放社に移るわけだが、創刊は大鐙閣によるもので、東京支配人と見なせる面家荘吉、もしくは編集発行人の田中孝治との関係から、大鐙閣が発行を引受けたと考えられる。

だがゾラの翻訳はともかく、本連載277でふれたように、大阪の出版人脈から刊行されたと見なすしかない碧瑠瑞園の多くの著作や『曾我の家五郎喜劇全集』などは、『解放』の社会主義的色彩とまったく性格を異にするように思われた。そしてこれらの大鐙閣の出版の落差は何に起因しているのか、疑問でもあった。後者は第五編を一冊だけ所持しているが、大正十一年刊行で、奥付には代表者として久世勇三の名前があり、東京京橋桶町と大阪三休橋南の二ヵ所の大鐙閣の住所が記されていた。ただこの十二冊を予定する全集は関東大震災によって中絶したはずで、昭和円本時代のアルスの『曾我廼家五郎全集』全十二巻へと引き継がれたと判断できる。

さてこの大鐙閣の出版企画の二面性に関して、久世の著書を入手し、それが氷解したので、ここで書いておきたい。その著書は大正五年に出された『漫画と落語のどぼとけ』である。奥付を見ると、五月一版、七月五版と重ねていて、著作兼発行者は久世勇三、発行所は大阪東区久宝町の霞亭会、東京市麻布区の霞亭会出版部とふたつの住所が記され、前者は久世の住所と同じである。奥付裏には霞亭会出版図書として、渡辺霞亭と碧瑠璃園を著者とする、ほぼ時代小説といっていい十一の作品が並び、それらに伊賀駒吉郎著『文学宝典』なる一冊も混じっている。

この本の内容は「漫画と落語」のタイトルに示されているように、右ページに『醒唾笑』を始めとする様々な江戸時代の笑語=「落語」を引き、左ページに久世自らの手になる「漫画」を配し、それらを百編収録したもので、大阪における大正時代の洒落本とでも呼んでしかるべきものかもしれない。

「序語」は霞亭主人が寄せ、「のど佛過ぐれは暑さ忘れる」という文句が見られ、ここからタイトルがとられたと思しき一文を草し、やはり大阪出身の画家鍋井克之が「わかつた様なわからぬ様ない汝が友の序文」を書いている。また「落語」の出典は「霞亭翁所蔵の珍書に負ふ」との断わりも付されている。

それらの中でもとりわけ出色なのは久世自身による「意匠図案」=「漫画」で、凡手ではない絵心を感じさせる。鍋井が「われこの業を彼れに求めて待つ事久し、今其の第一歩を見るに至り歓喜に堪えざるなり」との文言は、「漫画」に表われた久世の才人ぶりを手ばなしで称揚していると思われる。それは「意匠図案」に含まれる装丁造本にも発揮され、表紙カバーも瀟洒にして地味だが、裸本にしてみると思いがけずに鮮やかな姿を浮かび上がらせ、遊び心もよく伝わってくるし、久世にとって会心の一冊のような印象を受ける。それらの印象は大鐙閣の本からは伝わってこないもので、他の霞亭の本も見てみたいと思わせるほどだ。

これらのことから考えると、なぜ大鐙閣が霞亭や曾我廼家五郎の本をだしたのか、よくわかるし、そもそも大鐙閣の出発が霞亭会と霞亭会出版部にあったと推測される。久世は霞亭の近傍にいて、その著作の出版を中心とする霞亭会を大正の初めに営み、その流通販売のために東京にも支店を出していた。それが発展して大鐙閣となったのではないだろうか。

久世は従来通り大阪で霞亭会から続く出版を営み、東京支店には大阪と異なる出版人脈が導入され、『解放』のような雑誌の発行へとも至った。そのような出版形態は天佑社も同様であり、両社は合わせ鏡のように始まり、同じプロセスをたどり、そして関東大震災に遭遇し、これまた同じように廃業へと追いこまれたとも見なせるのである。近代出版業界において、この二社が失われたことは本当に残念でならないし、もし存続していれば、大阪の出版業界も異なる環境を出現させたとも考えられる。

ただその後、大鐙閣の大正十四年十二月刊行の成瀬無極『偶然問答』 を入手している。この事実からすると、大鐙閣は関東大震災後も存続していたことになるが、株式会社から、合資会社へと変わり、発行者も榎本文雄となっているので、やはり別会社と見なすべきだろう。

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