出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話513 島地黙雷『維摩経』

もう一冊、光融館の「仏教通俗講義」シリーズを見つけているので、それも書いておこう。それは前回挙げた島地黙雷の『維摩経』である。本連載510でふれた渡辺海旭の増上寺での日曜講演において、相馬黒光たちに語ったテキストの黙雷版ということになる。

黙雷については平凡社の『新撰大人名辞典』(覆刻版、『日本人名大事典』)に長い立項があり、近年には村上護の『島地黙雷伝』(ミネルヴァ書房)も刊行されている。後者には「剣を帯した異端の聖」というサブタイトルが付され、その名の由来が『維摩経』にある「維摩の一黙、雷の如し」に基づき、自らが好んで名づけたものであることが見返しの一節に記されている。
島地黙雷伝

まずこれらによって黙雷の生涯をたどってみる。彼は天保九年に周防国佐渡郡の浄土真宗本願寺派の寺に生れ、仏教と儒教を学び、肥後や安芸にも遊学した。元治元年萩藩が火葬を禁止すると、二十七歳の黙雷は『葬送論』を著わし、その非を鳴らした。慶応二年には萩の寺に真宗の僧侶を教育する学校を開き、フランス式兵式教練を生徒とともに受けた。明治元年には上洛して本願寺改革を断行し、また同二年に状況し、明治政府に親交の自由と廃仏毀釈政策の転換を訴えた。それらは「長髪帯剣」で実行されたようで、村上の著書のサブタイトルはこの事実に基づいている。一方で黙雷は木戸孝充の意を受け、『新聞雑誌』を創刊したり、さらに同五年には西本願寺法主の代理として、岩倉使節団に加わり、宗教視察のために、二年近く欧米を訪れている。岩倉使節団については、これを論じている本ブログ「混住社会論」117 を参照されたい。

帰国後、黙雷は政教混淆、仏教の神道への従属をもたらす大教院制度に反対し、浄土真宗四派の離脱に成功し、大教院を解散させ、政教分離と信仰の自由の道を打開した。これが黙雷の最大の仕事であったとされる。彼もまた南条文雄、高楠順次郎、渡辺海旭たちと同様に、外国から帰ってきた仏教者、しかも近世から近代の渦中にあった仏教界において、最も早い海外体験者の一人だったのだ。そして仏教の趣旨の普及や僧侶の教導などのために講話や講演に励み、とりわけ自らの僧侶名に由来に他ならぬ『維摩経』に執心していたという。

東京湯島の麟祥院での講演が、明治三十年に光融館から刊行された『維摩経』であり、これにも前回の南条文雄の『梵文阿彌陀経』と同様に、「仏教通俗講義」の角書きが付され、話体となっているが、漢訳原文訓読も併記したもので、やはり学術書的な印象を与える。黙雷はこの『維摩経』を始めるにあたって、「正しく本文に入て文義の解釈を致す前に」、現存する漢訳『維摩経』は呉訳、秦訳、唐訳で、その中でも広く伝わっているのは秦訳であり、日本での仏教各派における「註疏」の歴史を語っている。そして聖徳太子が選述した「本邦註経の権興」である『三経義疏』のひとつに『維摩経』を選んだことを、太子の先見の明として挙げる。

村上が、黙雷の別の講義発言を取り上げ、指摘するところによれば、それも含めた聖徳太子の事績は大乗仏教の実際を顕彰履行するもので、黙雷が太子を千三百年前の日本の維摩、また宗祖親鸞が七百余年前の維摩であり、それに続いて、黙雷自らが「宗風維新の維摩になろうとした」とされている。ただ私はそうした仏教に関する素養を持ち合わせていないので、そのような意図に基づく黙雷の『維摩経』に深く言及できないが、幸いにして長尾雅人によるチベット訳『維摩経』(『大乗仏典』7 所収、中央公論社)が手元にあるので、「維摩の一黙、雷の如し」のところだけでも確かめておきたい。それは次のようなシーンである。
大乗仏典

 マンジュシリー(文殊―引用者注)はヴィマラキールティ(維摩―同)に言った。「われわれはおのおのの説を述べたのですが、あなたもまた、不二の法門について、何か語っていただきたいのですが」
 そのとき、ヴィマラキールティは、口をつぐんで一言も言わなかった。

これを黙雷の『維摩経』の漢訳を示す。訓読、返り点は省略する。

 於是文殊師問維摩詰。我等各自説己。仁者当説。何等是菩薩入不二法門、時維摩詰黙然無言。

黙雷はこれに「無言に寄せて不二の理を説明する維摩の黙不二なり」と注釈を加えている。また村上は他の講義からこの部分に関する黙雷の言葉を引いている。それは次のようなものだ。「維摩は『黙然無言』と有りて、黙して一言も発しない。然るに、その黙然として語の無き所が却つる無碍の大説法にて、あたかも三千大千世界に響を徹する程の大音声のようだった。これを維摩の一黙、その響きは雷のようだったという」。これは荘子の「淵黙しこうして雷声」とも相通ずるものである。ここまできて、黙雷の由来が『維摩経』のこの部分の解釈によっているとわかる。

明治における仏教リテラシーの実情についてもまったくの門外漢であるけれど、このような「仏教通俗講義」が行なわれていたことは、やはり時代そのものの要請もあったように思われる。私が所持する黙雷の『維摩経』は明治三十三年の再版であり、巻末の「光融館出版仏教書目」を見てみると、織田得能『法華経講義』、大内青巒『原人論講義』、前田慧雲『天台西谷名目講義』、釈宗演『金剛経講義』などの「仏教通俗講義」、及びそれに類するシリーズと思われる三十余点が並んで掲載されている。これらの出版も明治三十年代がそのような仏教講義や講話の時代であったことを物語っているのではないだろうか。そして光融館もそのような時代に併走する出版社であったことも。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら