出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話692 金井為一郎『サンダー・シングの生涯及思想』と東光社

 前々回ポール・ケラスの八幡関太郎訳『仏陀の福音』と同様に、これも長い間よくわからない一冊があった。それは 金井為一郎の『印度の聖者 サンダー・シングの生涯及思想』で、大正十三年十二月に初版が出され、入手しているのは十四年十二月の第九版である。

 巻頭にサンダー・シングの写真がすえられ、著者の金井の「万物は聖者の出現を待ち望んで居る」と始まる「緒言」が続いていく。サンダー・シングの出現によって、「世界は新らしい聖者を与へられた」と宣言され、彼のインドからネパールやチベットに及ぶ苦難に満ちた伝道と苦行が語られ、次のようなプロフィルが提出される。

 然し彼の偉大は之等よりも更に其の信仰、聖徒らしい品性、霊的経験にある。歴史上未だ彼の如く天界の消息を明に告げた者は無く、屢々第三の天に挙げられ直接キリスト及び天使、諸聖徒と語り、其見聞した処を証するので誰も其権威を否む事が出来ない。我らは彼によつて霊界が明になり、別れた死者とも再び相会う事を確かにせられ、永遠の希望も愈々輝くのである。

 そしてサンダー・シングが一九二〇年に英国に赴き、多くの宗教家、学者、一般信徒と会い、彼に新たなキリストを見たことなども述べられている。

 それに続き、使徒行社の佐藤定吉による「序」において、「欧州に咲き出でた物質文化の美花は凋落しそめて、今や東洋の天地に霊界の春風がそよ吹き始めた」とされ、サンダー・シングこそが第一次大戦後の「暗黒の唯物世界に臨む東天の明星」と見なされている。このような東西の精神と物質をめぐる構図は、本連載104などの『世界聖典全集』の出版のベースとなっていたものであり、それは大正時代のすべての宗教書出版と共通していたとも考えられる。
世界聖典全集 (『世界聖典全集』)

 そして金井によるサンダー・シングの生涯が語られていく。それに関しては先のラフスケッチでとどめ、詳細には立ち入らない。その理由のひとつは、このサンダー・シングが近代宗教史の中にまったくその姿を残していないことで、彼もまたそのような時代にしか出現しなかった、もしくはそのような時代に多く現われた「聖者」の一人でしかなかったとも思われるからだ。それゆえに後の様々な宗教史でも言及されていないのではないだろうか。ただ金井のサンダー・シングへの執着はこの一冊で終わっているのではなく、その著書『主の膝下に於て』も続けて刊行しているようだ。
(『主の膝下に於て』)

 それらに加えて、奇異に映るのは、金井によるこの二冊が彼の住所でもある牛込区原町の東光社を発行所とし、岩波書店を大売捌所としていることだ。これは簡略にいえば、岩波書店を発売所として取次や書店で流通販売されていたことを示している。そのような岩波書店の、他の出版社に対する優遇的扱いは本連載140の羽田書店だけだとされていたので、東光社もそうだったことは『印度の聖者 サンダー・シングの生涯及思想』で初めて知ったのである。もちろんこれらの事情は『岩波書店七十年』などにも記されていない。

 また金井に関しても、その後入手はできなかったけれど、古書目録で本連載529の新生堂から刊行された彼の『スエデンボルグ伝及「基督伝」』(「基督教文献叢書」、昭和十年)を目にしている。これは金井がサンダー・シング、スエデンボルグ、キリストを同じく「歴的経験」を有し、「転回の消息を明に告げたる者」と見なしていることを示す。そのことは金井がそのような思想を有するキリスト教研究者と考えるしかなかったのだが、サンダー・シングと同様に、金井も近代日本宗教史の中にその名前を見つけられずにいた。

 ところが最近になって、「ウィキペディア」に金井の立項が見出されたのである。それは『クリスチャン情報ブック2006』(いのちのことば社)によるものと思われる。それによれば、金井は明治二十年長野県南安曇郡上野村に生まれ、松本中学を経て一高に入学。校長の新渡戸稲造の感化を受け、また山室軍平の説教に感動し、松本日本基督教会で受洗した。一高時代の山での遭難をきっかけとして、伝道者となる決意で東京神学社に入学し、卒業後、日本基督教会の伝道師、牧師として、朝鮮、高知教会、山梨教会、市ヶ谷教会で活動とある。
『クリスチャン情報ブック2006

 ここでは金井の著書や訳者に関しては取り上げられていないので、サンダー・シングやスエデンボルグへの傾倒の事情はわからないけれど、先述の二冊がどうして岩波書店を発売所として刊行されたかは了解できる気がする。それは金井が岩波茂雄と故郷を同じくし、一高、東大でも後輩に当たることから、金井が流通販売の手立てを持たない東光社として出版した『印度の聖者 サンダー・シングの生涯及思想』『主の膝下に於て』の発売所を岩波が引き受けたことを示しているのだろう。ここで岩波書店の大正四年の処女出版が夏目漱石の自費出版というべき『こころ』であったことも想起される。

 またこの「ウィキペディア」には大正二、三年頃のものとして、植村正久、高倉徳太郎、征矢野晃雄、斎藤勇などと並んでいる金井の写真も掲載されている。征矢野といえば、本連載433の大村書店からヤコブ・ベーメの『黎明』(復刻牧神社)を翻訳出版した人物ではないか。それも含めると、大正のキリスト教の背景には、この時代特有のサンダー・シング、スエデンボルグ、ヤコブ・ベーメという結び付きが生じていたのかもしれないことを示唆している。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら
odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com