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古本夜話626 冨山房『カトリック大辞典』

これらは旧稿であるが、出てきたこと、それに前々回の『新版現代哲学辞典』、前回の『神秘主義』とも関連するので、二編ほど挿入しておきたい。それに『カトリック大辞典』のほうは本連載595でもふれたばかりだからだ。
新版現代哲学辞典 [f:id:OdaMitsuo:20170204173417j:image:h110](『カトリック大辞典』)

私は自分の無知を承知していることと辞書が好きなこと、それに加えて編集や翻訳と仕事の必要性から多くの辞書、事典を架蔵している。そして折りにつけ、それらの出版経緯や事情についても記してきた。また戦前の辞書、辞典とはいっても、それしか刊行されていなかったり、戦後になって出ていても、その水準に及んでいないものが多々あることも事実だからだ。

そのような辞書の典型が冨山房『カトリック大辞典』全五巻だと思われる。もっともこれは第一巻が昭和十五年、第二巻が同十七年に出されたが、戦争のために中断を余儀なくされ、第三巻は戦後の二十七年、第四巻は二十九年、第五巻は三十五年と、戦争をはさんで二十年間にわたる出版となり、全五巻で五千ページ近くに及んでいる。これは辞書事業としても、あまりにも専門的にして特殊な企画であったゆえと考えられる。

『カトリック大辞典』は上智大学とドイツヘルデル書肆共編となっていて第一巻に「序」を寄せている初代編集長である上智大学ヨハネス・クラウスによれば、この辞典の趣旨はカトリシズムの真の姿を示すことにあった。ただ第五巻の「後記」を見ると、クラウスは昭和二十一年に物故し、共編者のフランシスコ会士チト・チーグレルも第五巻の発刊を見ずして急逝したとある。

この『カトリック大辞典』は基本的にヨーロッパで出されている標準的大辞典の翻訳であり、挿絵その他の資料はドイツのヘルデル書店が提供し、冨山房が印刷・製本・挿絵などに尽力し、ようやく完成に至ったという。

私はこの辞書を古本屋で入手したのだが、どうした事情なのか、第五巻に「カトリック大辞典要綱」というパンフレットがはさまれていて、それによれば、出版社は岩波書店、全三巻で、昭和十二年刊行予定となっていた。またそれには「編集員及び寄稿家」として岩下壮一、野田時助、戸塚文卿などの編集委員の大神学校教授の他に姉崎正治を始めとする三十余名の日本人寄稿者の名前も列挙されていた。

しかし出版事情については『岩波書店七十年』にも何も記載もなく、また『冨山房五十年』も昭和十一年刊行であるために、当然のことながら言及はなかった。

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そんな訳で、いつの間にか『カトリック大辞典』のことを忘却していたのだが、『昭和思想史への証言』(毎日新聞社、昭和四十三年)所収の古在義重と丸山真男の対談「一哲学徒の苦難の道」を読んでいたら、古在がこの辞典の編集部に勤め、ドイツ語の翻訳や原稿整理をやっていたという証言に出会った。その一方で、昭和十三年古在は「コミュニスト・グループ」事件により、治安維持法違犯容疑で検挙、投獄され、「転向」し、十五年に保釈出獄しいてる。そして敗戦の日まで保護観察下におかれていたが、ずっと『カトリック大辞典』に携わっていた。これは本連載595で少しふれているけれど、古在を通じて戸坂潤もこの編集に加わった。
先述したクラウスはドイツ人神父でもあり、上智大学内の編集室にはカトリックと古在や戸坂たちのマルクス主義者が「雑居」していたことになり、彼らの後ろ盾になっていたのは他ならぬクラウスだった。クラウスと古在たちの関係は昭和四年に彼の提唱で、上智大学内に「プラトン・アリステレス・ゲゼルシャフト」が設立され、それに古在たちが参加したことから始まったと思われる。クラウスについて、古在は言っている。

 僕はそこに勤めていた途中で引っぱられて、出てからも、また、すぐにそこに勤めた。(中略)こうして僕は前後十年にわたって『カトリック大辞典』をやったことになる。そのときでさえ、僕に警察の中でこの仕事を続けさせろという要求が、クラウス神父という人から警察に出されました。裁判のときにも、嘆願書をドイツ語で書いてくれた。ドイツ語のこの種の嘆願書ははじめてだと裁判官がいってたそうです。

丸山真男は大学生の頃、クラウスのところにドイツ語を習いにいっていたという。   またクラウス神父のみならず、フランシスコ会士のチトも反ナチ的神父で、ヒトラーの敗北を予言し、古在のようなマルクス主義者を保護し、雇ってくれたのである。それゆえに、古在や戸坂の他に、三木清、栗田賢三、清水幾太郎なども編集部に籍を置いていた。それを聞いて、丸山真男は「一種の避難所ですね」と応じている。

拙稿「橋浦泰雄と『民間伝承』」(『古本探究3』所収)でふれておいたように、転向したマルクス主義者たちである中野重治、福本和夫、石田栄一郎などが『民間伝承』を通じて、柳田民俗学へと接近していったことは知られているが、唯物論研究会によった古在たちが『カトリック大辞典』編集部をアジールとして、戦時下をやり過ごしたことはあまり知られていないように思われる。
古本探究3

『カトリック大辞典』は濃いグリーンの箱入で、荘重なムードをたたえ、宗教的ムードに包まれているが、マルクス主義者たちの編集への参画もあって成立したことになる。これも長い年月を要して完成した辞典につきもののエピソードであるので、ここに記してみた。

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