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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話627 オットー『聖なるもの』とイデア書院

これは前々回の『神秘主義 象徴主義』を購入した同じ時代の話である。
ドイツの神学者ルドルフ・オットーの宗教学の名著とされる『聖なるもの』の菊判の古本を買い求めたのは二十歳の頃で、読み出してみたが、訳文の晦渋さに阻まれ、通読できなかった。その同時期に『聖なるもの』が同じ山谷省吾の訳で岩波文庫に入っていることを知り、そちらでようやく読了した記憶がある。しかし元版はタイトルを書いただけで、古本屋の包装紙のカバーをつけたままにしておいたし、また岩波文庫にも元版の出版社名は記されておらず、どこから刊行されたのか、ずっと知らずにいた。
聖なるもの岩波文庫久松英二訳)

ところが最近になって書棚を整理していると、それが見つかったので、古くなったカバーを外してみると、荘重な趣きを備えた表紙が現われ、昭和二年にイデア書院から刊行された「基督教名著集」の第二巻だとわかった。第一巻のハルナックの『基督教の本質』はすでに出され、続刊として、刊行の有無は不明だが、ヒルティ『論文集』、イング『基督教神秘主義』、ハルナック『原始基督教』、サパティエ『聖フランチェスコ』が予告されていた。その後の調べで、第五巻のイングまでは出されているようだ。

イデア書院の名前を見て、均一台で二冊ほど拾った出版社であることに気づき、探したみた。すると大正十三年の佐藤定吉『科学より宗教への思索』、同十四年の松浦一『魂の故郷』が出てきた。前者の巻末にはイデア書院の「弊院の一切の純益は『教育の王国』実現のためにささげるのです」に始まる四つの理念、及び二十六冊の「出版書目」が掲載されていた。半数以上は小原国芳などの教育書であるが、神原泰の『芸術の理解』小川未明、野口雨情の童話なども含まれ、多くが版を重ねていることを示していた。三冊とも発行者名は高井能と記載されていたが、小原国芳の十版以上に及ぶ三冊の著書と小原の作品の出版を目的とする文言から、鈴木徹造『出版人物事典』を繰ってみると、イデア書院は玉川学園出版部の前身だとする記述に出会った。
出版人物事典

そこでいくつかの人名辞典を参照してみた。それらによれば、小原は明治二十年鹿児島に生まれ、鹿児島師範、広島高師、京都帝大哲学科を経て、大正八年に広島高師附属小学校主事から私立成城小学校主事となり、同十五年成城高校創立、昭和四年玉川学園を創設し、学園長という道をたどり、奥付の牛込区山伏町の住所から考えると、おそらく成城小時代にイデア書院も設立されているはずだ。

これらのことを検証するために、玉川大学出版部刊行の『小原国芳自伝』(1)(2)を読んでみた。ところがこの長大な自伝は推敲と削除を何度も繰り返したというが、熱に浮かされたような文章のイメージがまとわりつき、思いつくままに文章を冗漫につづっていく書き方のために、私にしてみれば、読むことが苦痛な文章に属し、それでいて肝心な部分が抜けている印象を受ける。そして多くの人物への言及があるのだが、例えば「朝永先生のあの背の高井、頬の秀でた、色の浅黒い、しまりのあるお顔は、とてもステキでした。微笑をたたえたシマリのある口元が時にステキでした」などの調子で、小原の自伝の執筆が老年のものだとは思われないほどだ。

小原国芳自伝

このような文章の記憶を追ってみると、この中にも登場する賀川豊彦『死線を越えて』と同種のニュアンスがこめられていたことに気づいた。大正はデモクラシーの時代にして、新たなる思想、宗教、学問、文学、芸術の勃興の時期だったが、教育も燃え上がっていた時代であったことがまざまざと伝わってくる。つまり出版に引きつけて考えれば、教育書が驚くほど売れる時期を迎えていた。小原は自著が「三十版、五十版」と飛ぶように売れたことを繰り返し書いているが、そのような体験がイデア書院の設立を促したのであろう。

死線を越えて

自伝の(2)に至って、ようやくイデア書院のことが出てくる。設立の経緯も年についてもほとんどふれられず、いきなり次のような記述にぶつかる。

 出版したものとしては先ず、私の『教育の根本問題としての哲学』。よく売れたのが『母のための教育学』(今でも毎年、三千部は印刷せねば追いつきませぬ。計三百八十版三十八万冊)。『理想の学校』。『文化大学講座』十五巻。キリスト教講座としてハルナックの『キリスト教の本質』、オットーの『聖なるもの』、ヒルティー叢書、『ペスタロッチ全集』六巻。(中略)小倉金之助先生の『数学教育の根本問題』は大事な本で、しかもモウケさせてもらいました。

最後の「モウケさせてもらいました」には笑ってしまうが、シリーズ名を「基督教講座」と誤記してもいる。そのほかにも雑誌『イデア』『全人』『女性日本』『児童の世紀』『教育日本』など、また「私の日本教育に対する手柄」という『児童百科大辞典』全三十巻も刊行し、「苟(いやし)くも、出版屋の元締は大学総長の見識と職権がないといけない」とも述べている。それならば、もう少しまともなイデア書院史を残してほしかったと思う。自伝は(3)まであり、玉川学園出版部への改称の時期も書かれているかもしれないが、とても読む気になれず、放棄している次第だ。

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