出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1013『英文世界名著全集』とスティーヴンソン

 これはかなり長きにわたって、留意しているのだが、出版社に関してまったくといっていいほど手がかりがつかめない全集がある。それは『英文世界名著全集』で、前回研究社の「英米文学評伝叢書」に言及したので、やはり続けてふれておきたい。
f:id:OdaMitsuo:20200329120710j:plain(第九回配本、第十八巻『ドン・キホーテ』、第二十巻『ワイルド童話集』)

 この『英文世界名著全集』は十年以上前に、古本屋の均一台から一冊だけを拾っていて、それは第六巻のスティーヴンソンの『驢馬紀行』だが、それは奥付表記で、表紙はTRAVELS WITH A DONKEY、背文字その下にR.L.STEVENSONとなっている。B6判上製、百五十ページ弱、おそらく全巻もそのような仕上がりであろう。本扉の上部には「WORLD′S CLASSICS IN ENGLISH」が示され、これが他ならぬ『英文世界名著全集』の謂だとわかる。そして英文タイトルが続き、(abridged)とあり、つまりこれが『驢馬紀行』の要約、もしくは抽出、そして次に「WITH TRANSLATION AND NOTES BY T.SAWAMURA AND Y.SAKAI 」との表記から、この二人による「訳文註釈」が確認されることになる。さらに奥付によって、二人が澤村寅二郎と酒井善孝だと判明する。すなわち『英文世界名著全集』は所謂「対訳本」シリーズと見なすべきだろう。

 それから四ページの「緒言」が置かれ、「十九世紀の英国ロマン派小説壇の覇者Stevenson」の簡約な生涯と作品が紹介され、たどられている。それによれば、『宝島』などのスティーヴンソンはまず紀行文と随筆から始まり、一八七八年刊行の『驢馬紀行』は洒脱な筆致で書かれ、ユーモアに富んだ面白い読物とされる。しかしここであらためて想起されたのは、スティーヴンソンの晩年で、そこには次のように述べられていた。

 小ヨット「Casco」号を家として、San Franciscoを出て、南洋諸島を歴遊し、ついにSamoa島に地を求めて、永住の家“Vailima”(=five rivers)を建てた。その著Vailima Letters はこの名に起因する。彼は此処に家を建てたり、荒地を切り開いたり、土人のために色々と世話をしてやつたり、無援の酋長を救つてやつたりして、土人からは太守の如く敬はれ、“Tusitala”(=the tale teller)として尊ばれ、彼等の感謝は彼の家に通ずる立派な住還“The Road of the Loving Heart”となつたのである。

 このくだりを読んで、本連載921のマーガレット・ミードの『サモアの思春期』(畑中幸子他訳、蒼樹書房)と同時に、スティーヴンソン『声たちの島』(高松雄一、禎子訳、「バベルの図書館」17、国書刊行会)におけるボルヘスの「序文」を思い出したのである。ボルヘスはそこで、スティーヴンソンを「心の友」とし、「彼は南洋諸島のサモアに赴き、ついにそこから帰ることはなかた。原住民は彼にトゥシタラ、つまり『物語をする人』という綽名を進呈した」と書いていたからだ。「トゥシタラ」はサモア語の“Tusitala”のことだったのだ。
f:id:OdaMitsuo:20200328171912j:plain:h120

 またそこにはUnder the wide and starry sky , Dig the grave and let me lie(ひろごれる星空の、その下に/墓(おくづき)掘りてわれを埋めよ)と始まる自らの墓碑銘も引かれ、スティーヴンソンがサモア島の山嶺に葬られて、その碑は“The Tomb of Tusitala”と呼ばれていることを知るのである。

 さてすこしばかりスティーヴンソンに関する言及が長くなってしまったので、ここで『英文世界名著全集』に戻らなければならない。この「発兌」は英文世界名著全集刊行所で、発行者は碇音太郎、いずれも住所は麹町区富士見町、印刷者は牛込区早稲田鶴巻町、吉原良三とある。吉原は印刷業界ではかなり知られた人物と目され、前述の訳註者の澤村と酒井のプロフィルは定かでないけれど、英文学者と見当がつく。だが碇はここで初めて目にするもので、しかも昭和二年という発行年からすると、円本時代に属する全集の刊行に携わった出版者の一人に数えられるのかもしれない。

 そのような推測しかできなかったけれど、ある古書目録に『英文世界名著全集』の記載を見つけたのである。それは第五巻の『ハーン短篇集』から第三十九巻の『黄金河の王』の十二冊で、後者はマルセル・シュオップ『黄金仮面の王』の誤植にして英訳であろうし、すでに矢野目源一訳『吸血鬼』(新潮社、大正十三年、復刻コーベ・ブックス)として翻訳されていたはずだ。

 古書価はいずれも二冊セット五百円とあったが、函入らしいけれど、端本の組み合わせゆえに見送ってしまった。ただそれを目にしたことがきっかけとなり、念のために、『全集叢書総覧新訂版』を繰ってみると、『英文世界名著全集』は英文学社から上級四十冊、初級十五冊刊行とあった。出版は昭和二年、定価は一円、特製は一円五十銭で、やはり全集と一円定価から、円本時代の産物だと見なすことができよう。版元の英文学社は刊行が後半に及んで、英文世界名著全集刊行会から改名されたと考えられる。
全集叢書総覧新訂版

『英文世界名著全集』のような「対訳本」の発祥は確認できていないけれど、昭和四年の研究社の「英文訳註叢書」全四十巻などに先駆ける企画出版だと思われる。なおこれも未見で、『英文世界名著全集』の焼き直しかもまたしれないが、英文学社も昭和四年に「訳註英文名作文庫」全十二冊を刊行している。またTRAVELS WITH A DONKEYは吉田健一訳『旅は騾馬をつれて』として、昭和二十六年に岩波文庫化されている。
f:id:OdaMitsuo:20200329173737j:plain(「英文訳註叢書」)旅は騾馬をつれて f:id:OdaMitsuo:20200329175511j:plain:h120(「訳註英文名作文庫」)

 それらはともかく私の「対訳本」体験を記せば、半世紀以上前の中学時代で、ケストナーの『エミールと探偵たち』をおぼつかない英語で読んだことが想起される。もちろん英語の授業とは関係なく、商店街の書店で見つけた一冊で、あれはどこの出版社、誰の英訳による「対訳本」だったのだろうか。

 後に『英文世界名著全集』は順不同の函入二冊本として刊行されていたことを知った。


odamitsuo.hatenablog.com


 [関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら