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古本夜話1411 添田知道『教育者』

 これもいずれ取り上げなければならないと思っているうちに、十年以上が過ぎてしまった。それは添田知道の『教育者』で、やはり「新日本文芸叢書」と同じく、錦城出版社から刊行されている。ただその編集者の大坪草二郎との関係は不明で、彼と添田の組み合わせは何かちぐはぐな感じがするし、別の編集者を通じて成立したように思われてならない。添田は『近代出版史探索』28の『香具師の生活』『演歌師の生活』(いずれも雄山閣)の著者で、『日本近代文学大事典』の立項をあらためて引いてみる。

 添田知道 そえだともみち 明治三五・六・一四~昭和五五・三・六(1902~1980)小説家。東京本所生れ。筆名さつき。父は演歌の作者、実演者の唖蝉坊。大正五年、日本大学中学中退後、金龍館楽屋勤務、活版工、夕刊売りを体験ののち、売文社に勤めて給仕、文選工などに従事した。七年ごろから父の業の演歌に参与し作詞、作曲、演奏とともに雑誌編集。昭和二年ごろより文筆生活に入り、小説、エッセイ、そして演歌の歴史、香具師の生活など底辺の文化に関する研究を数多く発表した。『人生の奇術』などを経て、本名の知道で刊行した『教育者(第一部「坂本龍之輔」昭一七・五、第二部「村落校長記」昭一七・九)第三部「荊の門」昭一八・六 錦城出版社、第四部「愛情の城」昭和二一・七増進堂』により第六回新潮社文芸賞を受賞。(後略)

 これを『日本アナキズム運動人名事典』での立項によって補足すると、新潮社文学賞の賞金千円は『教育者』を全国の図書館に配布するために使われたという。また『演歌の明治大正史』(岩波新書、昭和三十八年)で毎日出版文化賞も受賞し、『教育者』も玉川大学出版部から再刊されているようだ。

日本アナキズム運動人名事典  演歌の明治大正史 (岩波新書 青版 501)   (玉川大学出版部)

 さて他ならぬ『教育者』のほうだが、これは第二部『村落校長記』と第四部『愛情の城』の二冊だけを入手している。二冊とも昭和二十一年の増進堂版で、戦前の錦城出版社版は未見だけれど、敗戦直後の出版を物語るように、B6判並製の造本で用紙も粗末である。このような読み方はしたことがないのだが、第一部の『坂本龍之輔』は飛ばして、第二部『村落校長記』を読んでみた。それで判明したのは『教育者』全四部作がこの坂本を主人公とする連作であることだ。時代は日清戦争を控えた明治二十四年頃で、藩閥政府と民党である立憲党や立憲改進党の対立、抗争が続き、左右の壮士たちも三多摩地区にあって、にらみ合う状況下に置かれていた。

 (第二部、増進堂)

 そこに主人公の神奈川師範出身の坂本は乗りこみ、渋谷村の高等小学校の創設に加わり、校長として奮戦することになる。だがこの地方も中央の政治状況を反映するかのように、役場、地主、村会議員、学務要員、左右の壮士たちが入り乱れ、「教育者」坂本と家族、生徒や父兄たちも巻きこみ、村々に展開されていくのである。私的印象からいえば、『近代出版史探索』141の島木健作『生活の探求』の学校版のようにも読める。それゆえに昭和十八年に新潮社文芸賞を受賞するに至ったのではないだろうか。先んじて『暦』(新潮社)の壺井栄が同じく新潮社文芸賞を受けているけれど、昭和二十七年には『二十四の瞳』を書くことになる。だがこの『二十四の瞳』にしても、『教育者』の影響下にあったように思えてならない。そして戦後になっても『教育者』とその物語は反復されていったのである。

 そうした祖型としての『教育者』のことはひとまずおくにしても、昭和十九年秋に書き始められ、戦後になって刊行された第四部『愛情の城』の「後記」はその間の出版事情を語って余りある。「世は敗戦への歩みを一歩一歩進めてゐたのである。亡国への途上、互に明日の念を予測し得ぬ空襲下右往左往に、文化報告の名もあはれけしとんでしまつた」し、「出版界の動きはまつたく停止し」、「八月十五日が来た。」

 するとどうだ。降伏忽ち、粗末な日米会話本の氾濫である。そして又、民主主義を標榜する刷物の洪水である。悉くこれ際物。際物は赤本屋の仕事として従来出版界でも軽蔑されてゐたことではなかつたか。嗚呼々々、赤本日本。かたちに於ていふのではない。心に於てかう謂はざるを得ないではないか。昨日の便乗迎合が、今日の便乗迎合に変つただけのことである。一体全体、あのすれすれの命の瀬戸を、どう感じ、どう生きて来たのであらうか。人間はどこにゐるのか。民主主義だ、自由だ、進歩だ。するりと看板をかけかへてゐる。むしろ保守党を名乗つて出るもののないことに、政治学者の嘘を指摘した人があつたが、いつそのことに「迎合雑誌」と銘打つたらどんなものだと私は思つた。どこまでつゞくぬかるみぞ。あゝ、嘘はもう沢山だ。これではどこまで行つても真の出発はない。

 この戦後の出版界に関する生々しい証言は昭和二十一年一月十五日付でなされている。同じ頃、太宰治が「十五年間」(『狂言の神』所収、三島書房、昭和二十二年)で、「真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を描いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ」「今日に於いては最も新しい自由思想だ」といったことを想起してしまう。

 まさしくそのようにして、敗戦と占領下において、民主主義と「赤本日本」の出版営業は始まっていったのである。それから八十年ほどが経とうとしているが、二十世紀末の第二の敗戦に続いて、日本の出版業界はアマゾンによって占領されてしまった状況に追いやられている。「どこまでつゞくぬかるみぞ」状況はそのまま続いていて、日本の近代出版業界はバニシングポイントに向かおうとしているかのようだ。

 なお最初に『教育者』の企画編集者は大坪草二郎ではないことにふれておいたが、この添田の「後記」によって、その編輯者が中島憲三であることを知った。その後の中島も編輯者であり続けたのであろうか。


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