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古本夜話1413 榎本法令館「錦文庫」と「キング叢書」

 増進堂・受験研究社の前身岡本増進堂が、「立川文庫」に類する「新著文庫」や講談本を刊行していたことを既述しておいたが、最近になって浜松の典昭堂で、大正時代の榎本法令館の類書を入手している。それらはいずれも極彩色の表紙の『侠客稲妻重三』と『忍術勇士金剛小太郎』で、前者は大正十三年五版の「錦文庫」七として、「立川文庫」より一回り大きい、現在の文庫サイズ、後者は同十四年三版の「キング叢書」十七として、菊半截版である。

 (『侠客稲妻重三』)

 両者とも編輯、著作兼発行者を榎本松之助とするものだったのだが、発行所住所は異なり、前者は大阪市南区松屋町であることに対し、後者は浅草区瓦町となっていて、おそらく関東大震災を機として、榎本法令館も東京へと進出したのであろう。『近代出版史探索Ⅱ』302で、明治後半から昭和戦後に至るまでの一五四のシリーズ名と版元をリストアップしておいたので、それを確認してみた。すると「錦文庫」や「キング叢書」だけでなく、榎本書店(榎本法令館)は「家庭お伽噺」「天狗文庫」「英勇文庫」「武士道文庫」「長編講談」「大和文庫」「怪傑文庫」「忍術文庫」などを大正時代に次々と刊行し、この分野における大阪出版界の雄だとわかる。これらをトータルすれば、確実に五百点を超えるであろう。

(武士道文庫)

 それゆえに『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の昭和九年の「全国見切本数物卸商一覧」のところに、榎本法令館の名前が見えていることが了承される。東京の見切本数物の関西取次を榎本法令館は兼ねていたことになるし、それは自社の流通ルートにも相乗りさせていたのであろう。榎本法令館の榎本松之助に関しては、湯川松次郎の『上方の出版と文化』(上方出版文化会)でも散見するたけで、まとまった記述を見出せない。それでも『近代出版史探索Ⅱ』279の脇阪要太郎を著者兼発行者とする『大阪出版六十年の歩み』は、明治末期の大阪出版界における講談本や浪曲本などの流通販売をめぐって、「変った販売方法の法令館」という小見出しを付し、次のように語っている。

上方の出版と文化  

 当時の正式な販売ルート、小売店を通じて一般消費者に販売されていたが、榎本法令館は特殊な売捌き方を案出した。それは販売品を使って直接顧客に売るものである。その出版物は、児童の絵本・ポンチ絵(漫画)本、大衆の安易な読物であって、絵本類は木版活版色刷、読物は××悲話、××心中などという「きわもの」の、薄ペラいものであり、内容は低級なものであって、玩具類似品であった。
 関西線の湊町―天王寺間、大阪駅から、吹田、神崎間、片町線などの列車の中や、川口から出帆する大阪商船の定期航路の船中(神戸までの間)に、必ず現われて、
 「おなじみの榎本法令館であります。お子たちのおみやげに絵本桃太郎をおすすめします。一冊定価××銭ですが、本日は勉強しましてモー一冊金太郎を添えます。それから……と一冊一冊を加え、最後に読み物も加えて全部で十冊、これで一冊の定価の××銭でおわけします」
といった具合に、うまく引きつけて近在の農家やお上りさんの乗客に売りつけていた。この方法は大いに成功して法令館はメキメキ発展していった。
 

 『近代出版史探索Ⅱ』285、286で坂東恭吾がふれていた香具師(てきや)による東京での「汽車(はこ)売」「汽船(うき)売」が大阪でも榎本法令館によって応用されていたことになる。そしてこの流通販売が「大いに成功して法令館はメキメキと発展し」、講談本や文庫本における大阪出版界の雄となり、東京にも進出することになったのであろう。

 そのように考えてみると、榎本法令館は出版社・取次・書店という近代出版流通システムに対して依存度が低く、香具師ルートでの縁日や高町における露店、もしくは雑貨屋、荒物屋、おもちゃ屋、駄菓子屋などが主流だったとも考えられる。それを証明するように、『忍術勇士金剛小太郎』の奥付ページと裏表紙には京都の乳母車木馬や小供三輪車を扱う店のスタンプが押されている。これはおそらく低正味買切で仕入れられたことを意味していよう。

 しかしそのような榎本法令館であっても、昭和に入ると新たな文庫の刊行は少なくなり、しかも先に挙げたレーベルの焼き直しとなっていくのが見て取れる。それは昭和円本時代を迎えての出版社・取次・書店という近代出版流通システムの成長に加えて、十年代における国策取次の日配の成長と出版統制にも影響を受け、出版業界と緊密な関係を築けなかった榎本法令館を後退させていった原因にちがいない。それらが榎本松之助のプロフィルが残されていない理由となろう。


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