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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話1414 嵩山房といろは屋貸本店

 かつて大阪の出版業界を調べる資料として、足立巻一の『立川文庫の英雄たち』(中公文庫)も読み、思いがけない記述に出会ったので、それも書いておこう。実は同書の中に、『近代出版史探索Ⅲ』418の嵩山房が登場しているのである。

立川文庫の英雄たち (中公文庫)

 立川文庫を刊行した立川文明堂が貸本屋の取次で、立川文庫も含めて大阪の赤本や講談本も貸本屋ルートで多くが読まれていた事実を足立は指摘し、明治半ばには近世の行商的本屋と異なる新しい居付きの貸本屋が誕生したと述べ、続けている。

 そののち出版文化が上昇すると、新しい形の貸本屋があらわれるようになる。江戸以来の出版老舗嵩山房の長男小林新造は明治十八年、いろは屋貸本店を創業し、同じころ衆議院議員綾井武夫は共益貸本屋を始め、弘文館・東京貸本社・貸本店吉田や・石垣貸本店などが相次いで誕生した。ことに、いろは屋は保証金や地方郵便貸出しに新工夫をこらすなど、たえず良心的経営をつづけ、また、翻訳書・学術書の貸出しに力を入れたので学生・知識人によろこばれ、明治三十三年には一年十万冊を貸出したという。

 おそらくこの記述は沓掛伊佐吉の『明治の貸本屋』(「こつう・まめほん」9,日本古書通信社)によっていると考えられるが、何と嵩山房はいろは屋貸本店と直結していたかという思いにかられる。いろは屋貸本店といえば、ただちに田山花袋の『東京の三十年』(岩波文庫)の一節が浮かんでくるからだ。

明治の貸本屋 (古通豆本) 東京の三十年 (岩波文庫) (岩波文庫)(博文館)

 貧しい書生達に取って幸いなことには、その小川町を少し行って右に折れて又左にちょっと入ったところにいろは屋という貸本屋があった。今では本の代価を払わないでは貸して呉れる貸本屋もないようだが、その頃はその金がなくってもドシドシ借りて来られた。『我楽多文庫』『新著百種』『国民之友』その他新刊の雑誌を読むことの出来たのは、その書店のお蔭であった。

 明治二十年代には出版社・取次・書店という近代出版流通システムが誕生しつつあったが、そのかたわらで、このような貸本屋も出現していた。そして田山花袋がそうであるように、これらを背景にして、近代文学も立ち上がっていった。だが前田愛の『近代読者の成立』によれば、いろは屋は京橋に開業し、神田錦町にも進出して永続したが、その他の質の高い貸本屋は続かなかったようだ。ただいろは屋がいつまで存続したかについては言及していない。

近代読者の成立 (岩波現代文庫 文芸 32)

 いろは屋貸本店の廃業の時期は確認できないけれど、嵩山房は江戸時代まで追いかけることができた。上里春生の『江戸書籍商史』(名著刊行会)の中で、文化年間の書物仲間として、嵩山房/小林新兵衛、嘉永年間の書物問屋として、嵩山房/須原屋新兵衛の名前が挙げられている。江戸書物仲間は京都や上方系の通町や中通の組、及び須原屋の一統からなる江戸地本の南組によって形成されていた。嵩山房もその須原屋一統に属する一店であった。今田洋三は『江戸の本屋さん』(NHKブックス)において、小林新兵衛と嵩山房に二ページを割き、出版物や屋号の由来、出版エピソードなどを記している。まずは屋号の由来だが、それは江戸時代の儒者原念斎の『先哲叢談』にあり、それは小川菊松の言葉と重なっている。

江戸書籍商史  江戸の本屋さん―近世文化史の側面 (NHKブックス 299)

 書商小林新兵衛、徂徠に請うて曰く、小子家号なし、願はくは先生焉(これ)を命ぜすと、徂徠笑て曰く、書費(しょか)(本屋)の吾が門に出入りする者五人、而(しか)して爾(なんじ)が鬻(ひさ)ぐ所の価(あたい)最も高し、猶(なお) 嵩山の五獄(ごかく)におけるが如し、よろしく嵩山房と名づくべし。

 嵩山房の小林新兵衛は徂徠の自宅の号から呼ばれるようになった蘐園学派に出入りし、徂徠や弟子の太宰春台、服部南部たちの多くの著書を刊行し、徂徠学派に寄り添う版元であった。そして嵩山房は徂徠学派に代表される「江戸学界の発展、詩酒風流の文人社会の伸展」を支える背景になった。今田によれば、新兵衛は徂徠の『政談』の書本(かきほん)の秘書を務め、また不首尾に終わったが、春台の『経済論』を将軍に献ずるために彼に清書させる仲立ちもしたらしい。この両者の関係は後の岩波書店と漱石のつながりを彷彿とさせる。

 実際に『徂徠学派』(『日本思想体系』37、岩波書店)を見てみると、春台の『聖学問答』や南郭の『南郭先生文集』は底本が嵩山房刊行と明記されている。残念ながら徂徠の底本は写本のために版元の記載はない。弟子たちの本の中でも、南郭校訂の『唐詩選』は江戸時代のベストセラーとなり、それこそ五十年以上にわたって「板」を重ね、次々と『唐詩選』関連本が出版され、嵩山房の大ロングセラー本となったようだ。寛政八年に家業を継いだ新兵衛高英は春台の五十忌に合わせ、嵩山房の隆盛は徂徠学派の恩に浴することを記した小碑を春台の墓の横に建て、それは谷中天眼寺に今でもあるという。

いろは屋貸本店を始めた小林新造は新兵衛高英の後裔であり、『近代出版史探索Ⅲ』418の『日本考古学』を出版した小林慶は新造の息子なのかもしれない。だが小川が証言しているように、明治末には神田錦町の路地の奥にあったことから考えると、すでにこの時期にいろは屋貸本店はなくなっていたのだろう。そして関東大震災によって嵩山房も消滅したのであろう。


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