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古本夜話 番外編その二の2 帝国書院とユール『東西交渉史』「ユーラシア叢書」

 実は前回ふれなかったけれど、「ユーラシア叢書」として復刻されている原本がまだ二冊あり、それは本探索でも取り上げてこなかったので、ここで書いておきたい。

 その一冊は7のヘンリー・ユール著、アンリ・コルディエ補、東亜史研究会訳編『東西交渉史』で、昭和十九年に帝国書院から刊行されている。まず版元に関してだが、帝国書院は地図の教科書などで著名であるけれど、このような歴史書の出版社としてはふさわしくないし、戦時下の何らかの出版状況が絡んでいると思われる。そういえば、帝国書院の創業者は『出版人物事典』に立項されているので、それを引いてみる。

 (原書房版) 出版人物事典: 明治-平成物故出版人

 [守屋荒美雄 もりやすさびお]一八七一~一九三八(明治五~昭和一三)帝国書院創業者。岡山県生れ。小学校校長、中学教員などをつとめ、一九〇五年(明治三八)から中学校地理の教科書編纂などをはじめ、一七年(大正六)帝国書院を創業、二六年(大正一五)株式組織に改めた。旧制中等学校の教科書全科目と出版、ことに、地理、地図に関して学界一の成果をあげた。著書に『動的世界大地理』『法令より見たる小学校教員』などがある。

 『東西交渉史』の奥付発行者は守屋紀美雄とされているので、彼は守屋の子息ということになろう。だが帝国書院のような教科書会社と専門書出版の組み合わせはそぐわないし、訳編を担った東亜史研究会の実態をその「序」に見てみた。すると昭和十三年に東京帝大文学部東洋史学科卒業生の赤木仁兵衛、阿部宗光、大淵忍爾、中村治兵衛、守屋美都雄、横内整三の六名、それに当時助手として東洋史学研究室に勤めていた鈴木俊が加わり、研究会が始められた。そこで研究テキストとして選ばれたのが『東西交渉史』で、それはこの第一巻が「一般的に東西交通の大体を叙述し、東洋史研究者の必読の書」だったからである。

 このメンバーのうちで注目すべきは守屋美都雄であろう。彼は『近代出版史探索Ⅳ』711の国民精神文化研究所勤務、東洋大講師とされているけれど、やはり守屋の子息で、発行者の紀美雄の弟だと思われる。鈴木の「序」を読んでいくと、本書の刊行は守屋の尽力によって帝国書院へと持ちこまれ、翻訳刊行されたと判断できよう。昭和十九年という大東亜戦争末期の出版であり、時局との絡みもあって上梓に至ったのではないかと推測していたのだが、訳者のひとりの縁故によっていたことになろう。それでも帝国書院らしさを感じされるのは巻末の十四世紀前半の折り込み「アジア全図」で、赤字の中世地名と回教用語がリアルに映る。

 さて後回しになってしまったが、肝心の『東西交渉史』に言及しなければならない。同書は『世界名著大事典』(平凡社)に半ページ以上にわたる長い解題があり、全四巻の内容も記されているけれど、ここで第一巻を要約してみる。原タイトルはCathay and the Way Thither直訳すれば、『中国、そこへの道』でイギリスの旅行家、東洋学者のユールによって書かれ、それをフランスの東洋学者コルディエが補訂し、1913年に全四巻として刊行されている。中世における東西交渉史の研究の一大学成で、貴重な関係記録を広く学成し、テキストに基づく正確な訳文を収録した古典的名著とされる。

世界名著大事典〈第1巻〉アーカン (1960年)  Cathay And The Way Thither Being A Collection Of Medieval Notices Of China With A Preliminary Essay On The Intercourse Between China And The Western Nations Previous To The Discovery Of The Cape Route New Edition, Revised Throughout In The Light Of Recent

 第一巻は総編で、古代・中世における中国と西方諸国の交通史序説を形成している。まずギリシア、ローマ時代の中国に関する知識から始まり、中国人のローマ帝国についての知識、中央アジア経由の東西交通、中国のインド、アラビア人との交通、アルメニア、ペルシアなどとの交渉、中国におけるネストリウス派キリスト教などの文献記録、蒙古帝国時代にカセイ=Cathay の名で知られていた中国が支那=China へと変遷していったことを論述して結ばれている。

 この第一巻の概要だけでも、『東西交渉史』が古典的名著とされている理由がうかがわれるし、私にとっては第六章「支那に於けるネストリウス教派のキリスト教」が最も興味深かった。そこには「大秦景教流行中国碑」の一ページ写真が掲載され、それは私が『近代出版史探索Ⅳ』の表紙カバー写真に使った高野山の景教碑とほぼ同じで、亀の背に乗っている。これは一六二五年に長安の西安府で偶然に発掘されたもので、長い漢文の外にシリア文が書かれ、それは別の写真入りで提示されている。だがシリア文のほうは高野山の景教碑には認められなかったものだ。

近代出版史探索IV

 この章は詳細な原註を含めて四〇ページ余に及び、八四五年頃に埋められたらしいこと、ビルマのパゴタや僧院の周囲にもあるとされ、景教碑が日本やアメリカだけでなく、アジアの各地にも伝播していたことを教えてくれる。そうした意味において、『東西交渉史』は「景教碑伝説」の発祥の一冊とも考えられるのである。そういえば私も出版に関わったモンゴルの写真集、都馬バイカル著『スウェーデン宣教師が写した失われたモンゴル』(「桜美林大学叢書」、論創社)において、景教碑は見いだせなかったけれど、景教の痕跡を認めている。

スウェーデン宣教師が写した失われたモンゴル (桜美林大学叢書 4)

 それにしても『東西交渉史』全四巻の刊行は実現しなかったものの、風雲急を告げていたはずの戦時下において、このような翻訳書が刊行されたことに奇妙な感慨を覚えざるをえない。


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