出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話727 平凡社『東洋歴史大辞典』

 平凡社の『東洋歴史大辞典』『平凡社六十年史』を確認してみると、昭和十二年三月から十四年八月にかけて、全九巻が刊行されている。その刊行とパラレルに、昭和十二年七月には支那事変、完結の十四年五月にはノモンハン事件が起きている。まさに日本とアジアの関係も風雲急を告げていた時代に、『東洋歴史大辞典』は出版されたのである。
東洋歴史大辞典(『東洋歴史大辞典』) f:id:OdaMitsuo:20171106200350j:plain

 『平凡社六十年史』は、『東洋歴史大辞典』が昭和八年の『世界歴史大系』をベースとする企画で、「当時としては画期的なもの」「名著として世評の高いもの」だったと述べている。しかし『世界歴史大系』の東洋版としては、昭和十四年の『全亜細亜の歴史大系』全十三巻のほうがふさわしいし、『東洋歴史大辞典』は下中弥三郎と平凡社が満を持して送り出した畢生の企画だったように思われてならない。

f:id:OdaMitsuo:20171107101132j:plain:h115(『世界歴史大系』)

 下中は第一巻の冒頭に「東洋歴史大辞典を世に送る」という一文を寄せている。これはその「内容見本」にも掲載されているもので、その全文を引いてみる。

 世界は今や西に暮れて東に明けやうとしてをる。永らく西に注がれてゐた人類の眼は徐ろに東に転じ始めた。『亜細亜を知らずして世界を語る能はず』の意識が日に日に高まつて来る。特に我等日本人にとりては、亜細亜は、文化的にも地理的にも経済的にも一体としての運命共同体である。此の意味に於て、東洋歴史の研究と理会は、我が学界政界教育界実業界共通の要求である。而もこれに対する根拠的一般的な文献が極めて少ない。正確最新豊富な内容を有する東洋歴史辞典の出現は、実に現代日本の切実なる時代的要求となつてゐるのである。
 本書東洋歴史大辞典全八巻は、かかる時代的要求に答へて出現したるもの、その材料の古くして新しき、その内容の豊富にして正確なる、東洋諸国諸民族の文化探求者にとりて最高唯一の指導書である。
 本書の編纂に当り、斯学諸先輩指導の下、東京及び京都の帝国大学東洋歴史研究室の専門家諸君竝に全日本新進学徒の総協力により、茲に東洋史研究の一代指南車を建設し得たるは、啻に小社の光栄たるのみならず我が学界の一大貢献たるを信じて疑はぬ。敢て大方の共鳴支援を俟つ。

 またこの下中の言に加え、「凡例」においては地域的歴史的に「満洲・蒙古関係の事項を重視」と謳われ、四六倍判、各五五〇頁、全九巻が刊行されていくのだが、その奥付の編輯兼発行者は下中弥三郎との記載である。内容見本には監修として、矢野仁一や池内宏などの四人の、東京と京都帝大の東洋史学者たちの名前が連なっているが、実物本体には見えておらず、それはこの辞典の企画編集内容に関する下中と平凡社の自負を告げていよう。

 このような下中による「世に送る」といった序文を付し、奥付の編輯兼発行者も下中名としているのは、管見の限り、昭和六年の『大百科事典』全二十八巻、同八年の『大辞典』全二十六巻である。とすれば、下中にとって、この二つの事典と辞典に加え、『東洋歴史大辞典』が同じように重要だったこと、それゆえに製作と編集に精魂をこめていたことを自ら物語っている。それは当時の時代状況において、「小社の光栄たるのみならず我が学界の一大貢献」の実現でもあったのだ。そしてまた前回の京都帝大東洋史研究室の関係者を主たる著者とする「支那歴史地理叢書」の成立、及びそこに見える近年の蒙古研究の飛躍的進歩の言などは、この『東洋歴史大辞典』の刊行を背景としていることが了解される。

 またさらに下中のこの辞典に捧げる情熱の原点を求めるならば、昭和八年に彼が中心となって創立した大亜細亜協会に行き着くだろう。これは下中が数多く携わった団体運動のうちで最も熱意を傾倒し、国内外にも極めて反響が大きかったものとされ、『平凡社六十年史』(平凡社)でも、その創立メンバー、目的と性格、下中の地位、機関紙、対外活動、世界的反響などが八ページの長きにわたって紹介されている。それを読むと、下中と時代と『東洋歴史大辞典』が不即不離としてあったことが伝わってくるように思われる。

 さて『東洋歴史大辞典』に戻ると、これは本連載247の三島の北山書店で、二十年ほど前に購入しているのだが、残念なことに第九巻が欠けているので、その諸項目や執筆者たちの配置を簡略に伝えることができない。そこで後に本連載で何回かにわたって言及することになる「アンコール・ワット」を引いてみると、その前に「アンコール・トム」の立項はあるものの、二段組のうちの小さな写真入りの十六行ほどのもので、昭和十年代後半になって盛んに刊行されるようになるアンコール・ワット文献を見ていることからすれば、少しばかり拍子抜けの思いを抱いてしまう。

 それは『東洋歴史大辞典』が満洲や蒙古に重きが置かれ、南進論とは一線を画していること、アンコール・ワットへの注視はまだ確立されておらず、研究者も同様であったのかもしれない。

 ただ最後に付け加えておくと、『東洋歴史大辞典』の延長線上に、昭和三十四年に『アジア歴史事典』の刊行が実現したのであり、それは版元は異なっても、同三十六年の京大文学部東洋史研究室編『東洋史辞典』(東京創元社)の出版も可能だったと思われる。

東洋史辞典(『新編東洋史辞典』)


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古本夜話726 冨山房「支那歴史地理叢書」と内田吟風『古代の蒙古』

 前回のドーソン、田中萃一郎訳『蒙古史』と同様に、本連載724で柳田泉も挙げていなかったけれど、やはり昭和十五年に冨山房から内田吟風の『古代の蒙古』が刊行されている。それは「支那歴史地理叢書」の第五篇としてで、「同叢書」は巻末広告によれば、既刊五冊の他に、近刊続刊として二十五冊が並んでいる。そのうち確認できた既刊分をリストアップしてみる。
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第一篇  水野清一 『雲岡石窟とその時代』
第二篇  外山軍治 『岳飛と泰檜』
第三篇  北山康夫 『北支那の戦争地理』
第四篇  宮崎市定 『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』
第五篇  内田吟風 『古代の蒙古』
第六篇  鶯 淵一 『奉天と遼陽』
第七篇  曽我部静雄 『開封と杭州』
第八篇  宮川尚志 『諸葛孔明』
第九篇  村田治郎 『支那の佛塔』
第十篇  愛宕松男 『忽必烈汗』
第十一篇  佐伯 富 『王安石』
第十二篇 村上嘉実 『陶淵明』

f:id:OdaMitsuo:20171106111448j:plain:h115(『王安石』)

 モンゴル関連書は第五篇の内田、第十篇の愛宕の他に、続刊として四冊予告され、昭和十年代後半の蒙古出版ブームの一端をうかがわせている。それは内田が「まへがき」で、「近事飛躍的進歩をなしつゝある蒙古史学研究」と述べていることにも示されていよう。

 内田吟風の名前は平凡社の東洋文庫の『騎馬民族史』1の「匃奴伝」や「蠕蠕・芮芮伝」の訳者として見ていたし、「例言」にある恩師羽田亨と第一篇の水野清一への謝辞が、「京都帝国大学東洋史研究室にて」したためていることから、内田が京大の東洋史学者だとわかる。
騎馬民族史

 それもそのはずで、この「支那歴史地理叢書」自体が京大総長だった羽田の監修と銘打たれ、「支那歴史地理叢書の刊行に就いて」も彼の名前で出されているのである。それは蒙古出版ブームだけでなく、本連載でもたどってきたように、昭和十年代の「東亜」を広く収めた出版動向を示唆している。

 支那事変の勃発以来、我が国に於て支那に関する著述の急激に増加したのは、現下邦人の知識欲の向ふ所をそのまゝに反映するものに外ならぬ。実をいへば、従来支那や東亜に関して一般人の知る所は、甚だ人弱の域を免れなかつた。これは近時の我が国民が、すべてに於て隆々たる欧米の勢力に憧憬し、一図に欧米主義に走ると共に、衰運に沈淪した東方諸国を顧念するものゝ少かつた結果であつて、これが我国今日の発展を承知する上に寄与するところ多かつたとはいへ、一方余りに邇きを忘れた笑止の沙汰であつたといはねばならぬ。今次の事変によつて、東亜新秩序建設の大任が突如として国民の上に課せられると、政治に経済に社会に民族に、凡そ東亜に関する知識の欠如を痛感し、争うてこれが探究に勉めることになり、従つて関係著述の盛行を見ることになつたのであつて、立後れの詬は免れないにしても、尚且つ大いに喜べき現象である。

 しかしこれまでの支那に関する書物は専門的であり、時局下において、京都帝大研究室関係者の間から、「支那を知るに就いての基礎的要件としての歴史的読物を編述する要あり」との判断が下され、「支那歴史地理叢書」の編纂が企画されることになった。それもあって、内田が「例言」に「同叢書」刊行の主旨に則り、「一般読書人士の蒙古に対する史的認識の一助に資すべく、蒙古有史の最初より、匈奴帝国崩壊に至る、約十七、八世紀間に於ける民族の興亡、文化の盛衰を叙べた」と書いたことになる。つまりいってみれば、「支那歴史地理叢書」は支那事変を受けての支那や蒙古に関する啓蒙書シリーズだったのである。

 それならば、従来の専門的書物とは何かということになるのだが、実はその後本連載718でふれた水野清一の『東亜考古学の発達』を入手することができた。これは戦後の昭和二十三年の刊行で、京都の大八洲出版の、日本を主とする「古文化叢刊」の一冊であるけれど、「支那歴史地理叢書」の判型、並製、シリーズも同じで、しかも歴史啓蒙書的色彩も共通している。著者として重なっているのは水野と、続刊に名前が挙がっている梅原末治だけだが、企画編集のほうはつながっているかもしれない。
f:id:OdaMitsuo:20171106170209j:plain:h115(「古文化叢刊」18、『梵鐘と古文化』)

 それはともかく、水野はその「序」で、「本篇はもと平凡社の『東洋歴史大辞典』のために書いたもの」で、それを書き改めたと述べている。そこで、羽田が支那に関する専門書、及び支那事変後の著述の増加の象徴としているのは、この『東洋歴史大辞典』の出現を見てのことだったのではないかとの連想が浮かんだ。次回はそのことを書いてみる。
東洋歴史大辞典

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古本夜話725 ドーソン、田中萃一郎訳『蒙古史』とドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』

 前回、成吉思汗に関する基礎文献に言及したけれど、どうしてなのか、柳田泉も挙げていなかったモンゴル書があるので、それにもふれてみたい。それはドーソンの『蒙古史』上下で、明治四十二年に田中萃一郎訳として刊行され、前回の那珂通世『成吉思汗実録』と相並んで、日本のモンゴル史研究のための必携の文献とされている。この『蒙古史』は訳者の田中没後の昭和八年に三田史学会から再刊され、十一年から十三年にかけては上下巻の普及版として岩波文庫収録に至り、戦後も版を重ねている。

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 ドーソンはアルメニア系のスウェーデンの外交官で、トルコに長く駐留し、トルコ、ペルシア、アラビアなどの東方語に精通し、これらの古文献を研究し、『蒙古史』(Histoire des Mongols)を著したとされる。同書の第一巻は一八二四年にパリで出され、三四年にアムステルダムで増補改訂全四巻が刊行、五二年に再版が出た。

Histoire des Mongols

 この再版によって、『蒙古史』を訳した田中は、岩波文庫版の松本信弘の「跋」によれば、次のような人物である。明治六年伊豆国函南村生まれ、二十五年に慶應義塾大学を卒業し、母校で歴史の教鞭をとり、三十八年義塾留学生として英独に遊び、史学、政治学を専攻し、四十年に帰朝し、政治科、文学科においてその薀蓄を傾けた。この間に『蒙古史』は翻訳され、上巻が刊行されたが、当時の出版事情もあり、下巻は長く篋底に秘められていた。四十三年には大学に史学科を開設し、大正八年には法学博士に推薦されたが、同十二年に脳溢血のため、享年五十有一で急逝してしまった。そして昭和八年に同僚門人相集って遺稿出版として『蒙古史』上下巻合冊を刊行した。さらに小泉信三塾長の尽力により、岩波文庫に収録されたのである。

 この田中の翻訳も格調が高く、その「序」は「篤学の士に向ては故那珂博士訳成吉思汗実録によりて之を補はんことを望まずんばあらず」と見えているので、那珂訳を範と仰ぎ、翻訳したことになろう。それをうかがわせている「原序」の冒頭を示してみる。

 亜細亜の大半と欧羅巴東方の諸国とは、第十三世紀に於てタルタリーの民によりれ征服され蹂躙されたり。この時に当りてや従来相反目せる幾多遊牧の民は同一軍旗の下に集まり、恰も江河の決するが如く傍近の諸国に入寇して掠奪を縦にし、淋溜たる鮮血を以て之を蔽ひ、惨憺たる廃墟をその跡に残せり。獰猛にして且争闘をこととせる這般遊牧の民を制御し得たるの人物は、(中略)諸河の発源せる高山地方にありて、一処不在の生活を営める寒族の首領たるに過ぎざりき。この首領はその名を鉄木真Témoutchinと云ひ、蒙古諸部の部長が互に覇権を得んとして擾乱止むなく相奮闘せる時に際して、甚く運命の翻弄する処となりしも、遂にその敵手を仆し尽すを得たり。蒙古諸部の部長多くその制令を奉ずるや、鈴木真は次第にタルタリーの部族を従へ、皇帝の位に即きて成吉思汗Tchinguiz Khanと称せり。

そして成吉思汗は支那の地で「巨額の戦利品を鹵獲し」、中央亜細亜はその「法律を奉ずる」こととなり、波斯などは「皆滅亡」状態に直面し、さらにはインド、クリミア、ブルガリアをも「襲へり」とされる。その征服半ばにして、成吉思汗は「世界経略」を遺言し、死に至る。それからついにモンゴル帝国の出現を見る。

 成吉思汗の後二三代にして、蒙古人は裏海、カウカサス山脈、扜に黒海の北に位せる地方にその居を定め、露国を劫掠して二世紀間桎梏の下に呻吟せしめ、波蘭、匃牙利を蹂躙し、チグリス河犴にエウフラテス河々畔アルメニア、グルジア、小亜細亜を征服し、バグダードのハリフハ朝を朴し支那全部西蔵は勿論、印度の一部をも占領して恒河の彼岸に達し、成吉思汗の死後半世紀ならずして遺言は遂に果され、その子孫は殆んどアジアの全部に君臨するに至れり。

 先の引用にある「遊牧の民」が「傍近の諸国に入寇して掠奪を縦にし、淋溜たる鮮血を以て之を蔽ひ、惨憺たる廃墟をその跡に残せり」は、ドーソンによる蒙古に対するオリエンタリズム的視座に基づくし、後の引用以下はその成吉思汗によるアジア征服の完成譚とも見なすことができる。これは侵略された東欧の側から見た「遊牧の民」によるモンゴル帝国の隆盛を描き、西欧における成吉思汗と遊牧民族のイメージを確立する文献として読まれたと想像するに難くない。

 またもう一つ想起されるのはG・ドゥルーズ/F・ガタリの『千のプラトー』(宇野邦一他訳、河出書房新社、平成六年)である。その12は「一二二七年―遊牧論あるいは戦争機械」と題され、まずエルミタージュ美術館収蔵の「木だけでできた遊牧民の戦車」の素描が置かれている。それから「戦争機械は国家装置の外部に存在する」し、「この外部性は、まず、神話、叙事詩、演劇、そしてゲームによって確証される」という「公理」と「命題」が出され、続けて「戦争機械は遊牧民の発明である」ことの証明として、チンギス・ハーンの「血統を数的に組織する」こと、及び彼自身のための「盟友団」の構成を挙げている。

千のプラトー

 その「注」に出典として、前回もふれたウラジーミルツォフの『蒙古社会制度史』からとされているが、それに類する記述はドーソンの『蒙古史』でもなされている。『千のプラトー』にドーソンと『蒙古史』は引かれていないけれど、12の章の成立に当たって、不可欠の文献のように思えるし、ダイレクトでないにしても、密接にリンクしていることは間違いないだろう。「遊牧民」や「戦争機械」と並んで、『千のプラトー』の重要なタームである「脱領土化―再領土化」にしても、『蒙古史』に描かれた「高山地方にありて、一処不在の生活を営める」成吉思汗の表象に他ならないからだ。

 さてその後のドーソン『蒙古史』だが、これも昭和四十三年から佐口透訳『モンゴル帝国史』全六巻として、平凡社の東洋文庫に収録に至っている。ちなみに手元にある第一巻は昭和六十二年第十四刷になっていて、やはり前回の東洋文庫版、『モンゴル秘史』と同様にロングセラーであり、戦後におけるモンゴルへの絶えざる注視を物語っているようで、それは大相撲におけるモンゴル出身力士たちの存在へとつながっているようにも思われる。

モンゴル帝国史(『モンゴル帝国史』) モンゴル秘史(『モンゴル秘史』)


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古本夜話724 柳田泉『成吉思汗平話 壮年のテムヂン』

 柳田泉が昭和十七年に大観堂から、『成吉思汗平話 壮年のテムヂン』なる一冊を上梓している。前々回の尾崎士郎『成吉思汗』の刊行は同十五年だから、時代背景はもちろんのことだが、おそらく尾崎の作品に刺激を受け、共感を得て書かれたのではないだろうか。それは次のような「まえがき」に当たる一文に表出しているように思える。

成吉思汗(外函)

 著者が申し上げます―
 大陸の『真書太閤記』といった意味で、英雄チンギス汗の伝記をそのまゝ物風のものにしたら、可成り面白いものが出来るにちがひない、さういふことはこゝ数年このかた、度々頭の中で考へ考へしてゐたことでもあります。これはわたし自身、チンギス汗に大きな興味を感じて、十年もその余も前から彼の伝記や諸家の蒙古史や彼に関係ある雑誌をあさつてゐたところから、自然にわたしの頭に浮かんできたことであります(後略)。

 そして柳田はそれらの具体的な書名として、小林氏の『蒙古の秘史』、外務省調査局訳『蒙古社会制度史』、『秘史』、那珂博士『成吉思汗実録』、屠寄(号敬山)『蒙兀児(もんごる)史記』などを挙げ、『成吉思汗平話』が「大体は『実録』と『蒙兀児史記』によったもの」だと断っている。

 これらの文献に注釈を加えてみる。『秘史』とはモンゴル語原典からの中国明朝の史官による漢字音訳本『元朝秘史』をさしているが、モンゴル本土においては元帝国崩壊後の政治的混乱と戦争の狭間で消失してしまったという。この『元朝秘史』を日本語に翻訳したのが那珂通世の『成吉思汗実録』で、その翻訳は日本における「モンゴル学事始」にふさわしい典雅優麗な古文をもってなされ、明治四十年に大日本図書、昭和十八年には新版が筑摩書房から出されている。現在は『元朝秘史』は小澤重男の岩波文庫版でも読むことができる。

元朝秘史

 小林氏とは東洋史学者の小林高四郎のことで、やはり『元朝秘史』の翻訳『蒙古の秘史』は昭和十六年に生活社からの刊行である。また『蒙古社会制度史』はロシア人モンゴル研究者ウラディーミルツォフによるもので、これは十八世紀までのモンゴル社会史に関する画期的な研究とされ、同じく十六年に生活社から出版されている。

 ちなみに尾崎士郎や柳田の小説と同様に、これらのモンゴル文献の復刊も含めた出版は、いずれも昭和十年代後半になされていて、日本の北進論と大東亜共栄圏幻想、それに成吉思汗による中央アジアの征服が重なるイメージとして提出されていることになろう。ただ屠寄の『蒙兀児史記』は翻訳されていないと思われる。

 つまり柳田がこれらのモンゴル文献を最初に挙げているのは、自らの成吉思汗像が小谷部全一郎の源義経を成吉思汗とする偽史に基づくものではなく、正史に則ったものであることを伝えようとしているからだ。それゆえに那珂の『成吉思汗実録』が筆頭に置かれたと考えられる。しかしその新版が筑摩書房の刊行だと初めて教えられたので、『筑摩書房図書総目録1940-1990筑摩書房』で確認してみると、確かに創業間もない戦前に出されている。だがこれは筑摩書房の書籍として異色であり、出版には何らかの事情が秘められていると推測するしかない。


 そればかりでなく、この『同目録』を見ていくと、戦後の昭和三十六年の『世界ノンフィクション全集』22には、山口修訳『ジンギスカン実録』が収録されていたのである。これも『元朝秘史』の翻訳で、その「まえがき」には那珂の名訳のタイトルに従い、小林訳のやさしい苦心の訳業を継承した新訳だとの文言が付されている。山口のプロフイル紹介はないけれど、戦後のモンゴル研究者と考えられ、その訳文は次のように始まっている。
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 上天より命をうけて生まれたる蒼い狼[ブルテ・チノ]があった。その妻なる色白の鹿[コア・マラル]があった。テンギス(大きな湖)を渡って来た。
オノン川の源ブルカン山に住みついて、(そこに)生まれたバタチカンがあった。

 まさに那珂が『元朝秘史』を「蒙古の古事記」と命名したエピソードを彷彿とさせる記述に他ならない。残念ながら、那珂の『成吉思汗実録』も小林の『蒙古の秘史』も未見であるけれど、ここから井上靖の『蒼き狼』(新潮文庫)のタイトルが引かれているとわかる。そして戦前には想像する以上に、『成吉思汗実録』『蒙古の秘史』が読まれ、本連載718の東亜考古学会、同719の西北研究所などによった人々の、蒙古と成吉思汗幻想を駆り立てたにちがいない。それは司馬遼太郎もしかりだろう。
蒼き狼

 さてその後の『元朝秘史』のことだが、昭和四十五年に平凡社の東洋文庫から村上正二を訳注者として、『モンゴル秘史』全三巻が刊行に至っている。サブタイトルには「チンギス・カン物語」とあり、私が所持するのは平成一年第十一刷とされているので、明治四十年の那珂訳以来、八十年以上のロングセラーとなっていることを教示してくれる。村上の「はしがき」は『元朝秘史』がたどってきたロシア、ドイツ、フランスの翻訳と研究史、それらを継承した欧米の研究をあとづけ、長きにわたって元朝秘史学がモンゴルだけでなく、アルタイ学における頂点に位置することを簡略に伝えている。
モンゴル秘史


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古本夜話723 小谷部全一郎『増補改版成吉思汗は源義経也』

 前回の尾崎士郎『成吉思汗』において、尾崎が小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経也』の一節を引いていることを既述しておいた。その小谷部全一郎の著書が手元にあるので、これも書いておこう。

成吉思汗(外函)

 その前に書誌的なことを述べておけば、『成吉思汗は源義経也』は大正十三年に冨山房から刊行され、発売して二ヵ月にもならないうちに十版を重ねたという。しかし翌年になって、国史講習会の『中央史壇』が臨時増刊号として、『成吉思汗は源義経にあらず』を編み、批判の矢を放った。その特集は金田一京助、藤村作、三宅雪嶺、鳥居龍三などによるもので、それに対し、「反対論者に答ふ」べきところの小谷部は『成吉思汗は源義経也著述の動機と再論』を刊行し、これも十数版に及んだようだ。この特集目次明細と同書の書影は土井全二郎『義経伝説をつくった男』(光人社)に掲載されている。
f:id:OdaMitsuo:20171028180357j:plain:h120  『義経伝説をつくった男』

 この大正末のベストセラーと見なしていい小谷部の二冊が昭和五年になって、「上下二巻合本新版」の『増補改版成吉思汗は源義経也』として、厚生閣から刊行に至っている。その際にはやはり義経絡みの『静御前の生涯』も新著として出されている。これは本連載108でふれておいたように、小谷部の『日本及日本国民之起原』が厚生閣にいた春山行夫の編集によったことで、全二作も冨山房から版権が移されたと推測される。

 少しばかり前置きが長くなってしまったけれど、私が入手したのはこの厚生閣の第三版である。その表見返しには見開きで、「義経平泉ヨリ蒙古オノン河畔マデノ図」が置かれ、義経が平泉から北海道、樺太を経て、支那へとわたり、蒙古に至る道程が黒い線で示されている。同じく裏見返しには「成吉思汗行軍之図」が見え、蒙古に至った義経が成吉思汗となり、西へと行軍していくラインで、やはり語られている。

 小谷部は肩書に「ドクトルオフフイロソフエー」を付しているように、アメリカの大学で学び、英語に堪能だったことから、大正七年のシベリア出兵に陸軍通訳官として随行した。それは『成吉思汗は源義経也』に述べられているように、満州や蒙古における義経の事績を探り、積年の史疑を氷解させようとしたからだった。そのために公務の余暇を使い、ひたすら成吉思汗の遺跡研究に励み、それはシベリアや前回の大興安嶺と小興安嶺山脈にはさまれたチチハルにまで及んだ。

 その義経と成吉思汗をたどる研究活動は『成吉思汗は源義経也』の口絵写真に明らかで、「西比利亜ニコリス市に在る通称義経碑の台石」や「オノン河畔の仏閣と成吉思汗の遺跡」などは、本連載665における佐伯好郎の景教碑の発見を彷彿とさせる。それから同じくアメリカで神学を学び、シベリア出兵に通訳として同行し、後にユダヤ陰謀論者になっていった同110などの酒井勝軍をも想起させる。実際に『日本及日本国民之起原』もテーマは日ユ同祖論と見なしていいからだ。

 そうして『成吉思汗は源義経也』に秘められたモチーフも、次のようなクロージングに露出しているので、それを引いてみる。

 成吉思汗逝いて茲に七百余年、(中略)盖日本にして倒るれば、瀕死の亜細亜は自ら滅亡し、世界は白人の占有に帰するものと妄想するが故なるべきも、(中略)再び英雄の其間に出づるありて、逆まに非道を膺懲せむること昭然たり。日本は一たび白禍の東侵を奉天対馬に阻止するを得たるも、之を以て禍根は終局せるものと視倣すべきにあらず。由来歴史は繰返へさるゝ事実に徴するも、成吉思汗の時代に於けるが如き東西の軋轢訌争は遂に後避く可らざるなり。嘗ては成吉思汗の源義経を産したる我が神洲は、大汗が鉄蹄を印して第二の家郷となせるアジアの危機に際し、之を対岸の火視して空しく袖手傍観するものならんや。成吉思汗第二世が旭日昇天の勢を以て再び日本の国より出現する盖し大亜洲存亡の時機にあるべき耳。

 これが源義経=成吉思汗伝説にこめられた衝動なのだ。それゆえに『同著述の動機と再論』に、本連載565などの大川周明の賛同や後の満洲の夜の帝王たる甘粕正彦の絶賛の言葉も収録されるに至ったのだろう。

 成吉思汗の前名テムジンは日本語のテンジン、すなわち天神だとか、成吉思汗はゲン・ギ・ス、源義経は音読すれば、ゲン・ギ・ケイ、これは他の国で訛ると、ゲン・ギ・スとなる。「此の理を推して成吉思汗は源義経の名を音読せるものなり」という見解はまったく首肯できないけれど、この時代において、それはひとつのブームのようにして浸透していったのだろう。

 高橋富雄『義経伝説』(中公新書)や森村宗冬『義経伝説と日本人』(平凡社新書)を読むと、江戸時代に起きた義経生存説運動とも称すべきものが、大正時代のナショナリズムと、後の北進論と大東亜共栄圏幻想にリンクし、ひとつの倒錯的物語を造型していったとわかる。そしてそれは戦後の高木彬光の『成吉思汗の秘密』(光文社文庫)まで継承されていったことになる。

『義経伝説』 『義経伝説と日本人』 『成吉思汗の秘密』


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