出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話722 尾崎士郎『成吉思汗』

 前回、戦後に井上靖や司馬遼太郎が西域小説を書いていたことにふれたが、それは彼らだけでなく、大東亜戦争下においてはいくつもの作品が発表されたと考えられる。その典型としての尾崎士郎『成吉思汗』が手元にある。これも例によって、浜松の時代舎で購入してきた一冊で、昭和十五年に新潮社から出され、小穴隆一装幀・挿画による、まさにテムヂン=成吉思汗を主人公とする小説に他ならない。本体は鮮やかな黄色で覆われ、その中に馬に乗る成吉思汗が描かれている。
成吉思汗(外函)

 私は以前に「尾崎士郎と竹林書房」(『古本探究2』所収)などの、尾崎に関する論考を書いているけれど、時代舎で見るまではこの小説を知らなかったし、『日本近代文学大事典』の尾崎士郎の立項にも挙げられていなかった。そこで、『成吉思汗』には折り込み地図「蒙古及び支那の一部」に続けて「序」が置かれていることもあり、目を通してみると、尾崎が昭和十四年秋に蒙古を訪れていることを知った。そしてこれが「蒙疆へ入つて包頭から黄河のほとりを彷徨ひ歩いてゐるとき、私は自然にあふれるやうなものをかんじ」、「茫乎たる空想の世界へと僅かに片足を踏み入れた」ことにより、成立した作品であることも了承した。また「作者の意図」が成吉思汗の「無限にひろがつてゆく情熱と野心とはもはや今日においては古典的物語ではなく、アジア民族の将来に一つの大きな方向を暗示してゐる」ことに由来するという次第についても。
古本探究2

 『成吉思汗』は蒙古部族の葛藤の中から生まれたテムジンが悲劇的な宿命を克服し、成吉思汗となり、蒙古民族を率いて北京に向かうために万里の長城を突破するところまでが描かれている。これは「第一部」で、「第二部」の完成も近いとしているが、それは刊行されなかったはずだ。それはともかく「第一部」の中で、尾崎の蒙古に対してのイメージの投影を抽出してみる。蒙古の騎士は風習は伝来の精悍な気質と性格に加え、漂泊生活の最も自然に適合した形式だったと定義した後、尾崎らしい感慨を書きつける。

 あゝ、それにしても涯しなき游牧のたのしさよ、星の浄らかな夜空の下を駱駝の群れに荷物を一杯背負はせ、水と青草と森かげを慕つて行方定めぬ漂泊の旅をつづけてゐる彼等の姿ほど世に美しいものがあらうか。自然の中に生きてゐる彼等が部族の頭目に対して絶対の信頼を寄せてゐることはいふまでもない。彼等の統率力は権力と武力の権化であり、その前に生命をさらけだすことは游牧の民の誇でもあれば喜びでもあつた。

 ここにこの『成吉思汗』という物語のコアが集約されているし、それを尾崎は日本の時代小説のような体裁で進めていく。これは未読なので断言はできないけれど、昭和十三年に『石田三成』(中央公論社)を刊行していることも影響しているのではないだろうか。
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 また尾崎の小説としては異例だが、巻末には自らの「解説―私的認識による」が付されている。そして彼が蒙古において体験した「茫乎たる空想の世界」が具体的に語られている。それは「成吉思汗は義経なりといふ説がある種の史的根拠をもつて台頭しつつあることについても、完全にこれを覆へすに足る材料がないかぎり正面から否定さることは必ずしも正当ではない」という文言であり、実際にその言説の提唱者の小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』の一節も引かれている。小谷部に関しては本連載108で既述している。

 これに蒙古伝説における黄河の夕陽に託される生命力の象徴としての成吉思汗が重なる。それは成吉思汗研究者にとって必須の『元朝秘史』(岩波文庫)から成吉思汗と耶律楚材(ヤリソザイ))との出会いを引き出し、後者を文化的協力者として位置づけ、それをもって成吉思汗が「欧亜両大陸にまたがる彼の版図は世界の三分の二」に達していたことになる。

元朝秘史

 様々な成吉思汗伝説が尾崎の『成吉思汗』の「第一部」へと流れこみ、その人間としての完成までが描かれたわけであるが、尾崎がこの「解説」を付したのは、「第二部」への架け橋の意味だと考えられる。それは「あれほど強大な勢力と組織を持つてゐた大モンゴル王国が何故に今日あるごとく見るかげもなく衰退してしまつたかといふことについて」、「私にとつてはつひに一つの謎である」からだ。それに関して、尾崎は成吉思汗がヨーロッパ後略の際に、海上権を獲得しておらず、物質の補充ができなかったことにあるのではないかという提起をしている。

 とすれば、尾崎の描こうとした「第二部」とは、支那攻略から西征に移つて、ロシアを攻略し、ヨーロッパ全土を震撼させるところに及んで、はじめて全貌をあらはすことになる」はずだったと思われる。それは日清、日露戦争を経て、大東亜戦争へと向かった昭和十年代後半の日本状況とも重なってしまう。しかし『成吉思汗』刊行の翌年には太平洋戦争が始まり、十七年には日本軍はミッドウェー海戦で四空母を失い、ガダルカナル島から撤退し、まさに海上権を失おうとしていた。そのような戦争状況の中にあって、『成吉思汗』の「第二部」は書かれずに終わったことになろう。


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古本夜話721 フレミング『ダッタン通信』とスミグノフ『コンロン紀行』

 昭和三十年代末の『ヘディン中央アジア探検紀行全集』全十一巻に続いて、四十年代に入り、同じ白水社から『西域探検紀行全集』全十六巻が刊行された。後者は監修を深田久弥、本連載716の江上波夫、協力を長沢和俊とするもので、推薦文というべき「刊行によせて」を書いているのは、同717の今西錦司、同584の泉靖一、それに井上靖である。
f:id:OdaMitsuo:20171020135241j:plain:h110(『ヘディン中央アジア探検紀行全集』) 西域探検紀行全集(『西域探検紀行全集』、第1巻)

 今西はそこで次のように述べている。

 さきに『ヘディン中央アジア探検紀行全集』を刊行した白水社が引き続き『西域探検紀行全集』を企画している。これでアジアの深奥部に関する目ぼしいものが、ひととおり出揃うことになるであろう。その楽しい期待は、こんどの全集中に、外国人に伍して、わが大谷光端、河口慧海両先輩の名を発見するに及んで、喜びとともに、私に一種の感慨を呼びおこさないではおかない。アジアの深奥部にわけ入ってみたいという抑えがたい情熱を抱きながらも、不幸にして私たちは、その実現の不可能な時代に生きてきた。この全集は私たちの墓標であっても、つぎの時代の著者たちにとっては、格好な跳躍台になってくれることを、私は切望する。

 これは単なる推薦文というよりも、『西域探検紀行全集』の明細を前にしての非常に屈折した思いの吐露とも判断できる。「アジアの深奥部にわけ入ってみたいという抑えがたい情熱を抱きながらも、不幸にして私たちは、その実現の不可能な時代に生きてきた」とは、日本の敗戦後と「アジアの深奥部」の時代状況に他ならない。そこには前々回の大東亜戦争下における蒙古の西北研究所での日々が続けば、自らがそれらの「アジアの深奥部に関する」探検紀行を実現したかったという思いがこめられているのではないだろうか。それが「この全集は私たちの墓標」だという言葉にも表出している。いってみれば、この『西域探検紀行全集』は、次時代の著者たちの「恰好な跳躍台」であっても、それらの探検を果たせなかった今西にとって、「私たちの墓標」のように出現しているのだ。

 本田靖春が『評伝今西錦司』の最後のところで、今西は「ヒマラヤの巨峰の頂きを踏むという若き日の夢は、戦争の時代に打ち砕かれた」と記し、今西はすべての面で恵まれていたけれど、「意のままにならなかったのは、時代」だったと述べている。だが今西の夢は「戦争の時代に打ち砕かれた」のではなく、「アジアの深奥部」までを含む大東亜共栄圏幻想が敗戦によって「打ち砕かれた」というべきだろう。

『評伝今西錦司

 井上靖のほうは同じく「刊行によせて」で、率直に「この全集に収られてある旅行記の一冊を手にするために、私たちはいかに若いエネルギーを費やしたことか」と述べ、このような「企画が若し二十年前にたてられていたら、私の青春は大分違ったものになっていた筈である」とまで書いている。これを読んで、井上が戦後になって、『蒼き狼』を始めとする西域小説を発表していることを想起したのである。また小説家といえば、司馬遼太郎が大阪外語学校蒙古語部出身で、やはり初期に『ペルシャの幻術師』などを書いていることも思い出された。そして戦前はもちろんのこと、戦後になっても、かなり広範囲に西域への幻想と関心が保たれていたことを教えてくれる。ただ『西域探検紀行全集』は戦後の出版なので、その明細はリストアップしない。

蒼き狼 ペルシャの幻術師

 さて前置きが長くなってしまったけれど、ここでふれたかったのは『西域探検紀行全集』の14のフレミング『ダッタン通信』(前川祐一訳)、15のスミグノフ『コンロン紀行』(須田正継訳)に関してである。7の河口慧海『チベット旅行記』や9の大谷探検隊『シルクロード探検』はもちろん再録だが、当時はいずれも稀覯本と化していて、入手が難しかったようで、今西や井上が両書を挙げているのはそうした書物事情を告げていよう。それら以外は15を除いて新訳での刊行である。

ダッタン通信 コンロン紀行 チベット旅行記 シルクロード探検

 実際には14と15は戦前に翻訳が出されている。フレミングの『ダッタン通信』はイギリス人の一九三五年の北京からカシミールへの旅行記で、ちなみに付け加えておけば、彼は『タイムズ』特派員で、その夫人は映画『逢びき』のヒロインを演じたシリア・ジョンソンである。これは昭和十五年に生活社から川上芳信訳で『韃靼通信』として刊行され、その抄訳が戦後になって筑摩書房の『世界ノンフィクション全集』35に収録されている。本連載662の前嶋信次の「解説」によれば、川上は善隣協会員だったようで、最初にその月報に訳出したところ、生活社からの依頼で翻訳にとりかかったという。またフレミングと旅行をともにしたエラ・マイヤールの『婦人記者の大陸潜行記』も、昭和十三年に多賀義彦訳で創元社から刊行されている。しかし両書とも未見である。

逢びき f:id:OdaMitsuo:20171020200407j:plain:h120

 スミグノフの『コンロン紀行』はロシア人によるトルキスタンやアルタイ地方への旅、及び崑崙への旅を合わせたもので、スミグノフ夫妻はフレミングの『ダッタン通信』にも描かれている。ところがスミグノフの原著はタイトルその他が一切不明であり、国会図書館や東洋文庫にも架蔵していない。それゆえに須田正継訳が例外的に『西域探検紀行全集』においても採用されたことになる。巻頭に昭和十六年二月天津にてとあるスミグノフ夫妻と須田の写真が掲載されているが、須田は蒙疆の厚和日本領事館員で、蒙疆新聞にそれを訳出し、昭和十九年に本連載706、718などの日光書院からまず『コンロン紀行』、二十一年に『アルタイ紀行』が刊行され、第三部としての『新疆紀行』も予定されていたが、これは出なかったようである。

コンロン紀行(日光書院版)

 戦前の蒙古関係者によって翻訳された『ダッタン通信』も『コンロン紀行』も抄訳とはいえ、それぞれに筑摩書房と白水社によって引き継がれたことは、戦前と戦後が出版を通じてリンクしているエピソードを物語っていよう。


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古本夜話720 大日本回教協会、照文閣『回教民族運動史』、川原久仁於

 前回、善隣協会の名前を挙げたが、本連載577の回教圏研究所もここに属していたのである。この回教圏研究所とは異なるかたちで、東京モスクが開堂された昭和十三年に、続いて大日本回教協会も設立され、これは前首相、陸軍大将林銑十郎を会長とし、評議員は頭山満、小笠原長生、真崎甚三郎などで、国策としての日本イスラム関係者が総動員されたという。本連載595の古在由重がそこに勤めていたことを『戦中日記』に記している。このルートでもイスラム関係書が出版されたと思われるが、まだ具体的に確認できていない。それでも一冊だけは入手している。

戦中日記(『戦中日記』、『古在由重著作集』第6巻所収)

 それは陳捷著中山一三訳『回教民族運動史』で、昭和十八年に照文閣からの刊行である。著書、訳書、出版社がいずれも不明という一冊ではあるけれど、本連載577の回教圏研究所編『概観回教圏』を補足するような構成となっている。『回教民族運動史』はトルコを中心とする回教民族運動史と見なしていいし、しかも原書は陳捷という、おそらく中国人回教史家によって書かれ、日本において中山一三によって翻訳されたことになる。
(『概観回教圏』) f:id:OdaMitsuo:20171018114501j:plain:h120

 B6判並製、二六二ページで、用紙も粗悪なものであるけれど、サウジアラビアのイブン・サウド王やメッカなどの口絵写真が四ページにわたって掲載されている。その内容はまず回教国とその民族の分布から始まり、先述したように、新旧トルコにおける回教の社会状況と復興運動が語られ、続いてその周辺国やアジア各地、アフリカの回教民族運動にも及んでいく。そして回教民族がそれぞれに解放運動を続けてきたが、自由を獲得したのはトルコだけで、その大部分は現在も白人帝国主義勢力、すなわち大英帝国の圧制下にある。しかし第一次世界大戦を契機として、回教民族の覚醒は急激に進展しているので、時機が至れば、彼らは立ち上がるであろうとの結論にて、『回教民族運動史』は閉じられている。

 その内容はひとまず置き、そのプロフィルがよくつかめないのだが、出版社からトレースしてみる。照文閣は京橋区銀座西八丁目にあり、発行者は八幡兼松となっている巻末ページの既刊書として、井上雅二『亜細亜中原の風雲を望んで』、鈴木善一『興亜運動と頭山満翁』、永井柳太郎『世界に先駆する日本』などが並んでいるけれど、とりたててイスラム色は感じられない。

 だが中山の「訳序」を読んでみると、原書は八年前に上海で出されたもので、回教問題に関して、これほど広範囲にわたって言及されているものは少なく、好個の入門書だと述べられている。この訳出の目的は、大東亜共栄圏の建設がただちに世界新秩序につながり、そこで回教問題は重要であるからだ。なぜならば、「三億を似つて称される世界回教徒は、我々と同じアジア人だ。彼らはアラーの使徒、解放者の再現を待ちつつ、横暴白人の鉄鎖に呻吟してゐる。我々は彼等に『その処を得さしめ』ねばならなぬ」のだ。

 そして最後に「本書の刊行に際して、梶原勝三郎先生、照文閣の川原久仁於先生、並に回教協会の赤澤義人先生の賜つた厚情」への謝辞がしたためられている。また口絵写真も回教協会の提供によることも。ここでこの『回教民族運動史』の翻訳出版が回教協会絡みであるとわかる。それから照文閣の編集長と思しき人物が川原ではないか、それは「本稿が書籍のかたちをとって、現れ得たのは一重に先生の御陰」という言から、推測もつく。

 しかし出版社、編集者、著者、訳者、関係者などに関してわかったのはこれだけで、梶原勝三郎は本連載645、706で言及しているが、赤澤義人は不明で、その他のことはその後も手がかりがつかめなかった。それでもしばらくして、川原は『日本児童文学大事典』にその名前を見出したのである。その立項を引いてみる。

 川原久仁於 かわはら・くにお
 一九〇五(明38)年二月二〇日~八八(昭63)年二月一八日。作家、挿絵画家。本名国雄。北海道赤平生まれ。日本美術学校日本画科卒。『明るい子供部隊』(四二、鶴書房)『三ちゃん日記』(四八、国民図書刊行会)など溌剌とした子どもを描いた作品があり、明るく生き生きした少女を描いて四一年「少女倶楽部」「少女の友」の挿絵に登場、(中略)ほかに一般向けユーモア小説がある。

 ここには川原という戦前は児童文学者、及び少女雑誌の挿絵画家だった人物が、どのようにして大日本回教協会と関係があった照文閣に在籍し、編集者を務めていたのかは何もうかがえない。ひょっとすると、川原もまた昭和十年代の日本のイスラム運動の近傍にいたのかもしれない。

 ずっと本連載でたどってきたように、大東亜戦争下における出版物の全貌がつかめないのは、鶴見俊輔が『転向』(平凡社)の中でもらした名セリフともいうべき、「翼賛運動は、ぼう大な量の紙くずとなるべき文献をうんだ」ことにも由来している。また「紙くず」であるゆえに、敗戦後に出版社によって焼却されたことにもよっている。それらに加えて、『回教民族運動史』に象徴されるように、出版社、編集者、著者、訳者などが不明であることも相乗している。もっとも戦時下での出版物というものは、そのような宿命を必然的に帯びてしまっているのかもしれないのだが。

転向


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古本夜話719 蒙古善隣協会と西北研究所

 前々回の小川晴暘の『大同の石仏』に、蒙古旅行に関して善隣協会や京都の東方文化研究所への謝意があることにふれた。だが前回の『蒙古高原横断記』においては、その探検が小川に先駆ける昭和六年と十年だったので、蒙古の張家口から出発しているにもかかわらず、その領事の名前は出てくるけれど、両者への言及は見えていない。それは蒙古への善隣協会の進出が満州事変以後だったこと、及びこの探検が東亜考古学会プロパーのプロジェクトであったことを伝えているのだろう。前者に関しては昭和六年の「シリンゴル紀行」から帰った翌日、「あの満洲事変の号外を手にしたのは!」と書かれているからだ。

f:id:OdaMitsuo:20171011115622j:plain:h120(朝日新聞社版)

 かつて拙稿「郷土会、地理学、社会学」(『古本探究3』所収)で、社会学者の田辺寿利を取り上げた際に、あえてふれなかったが、昭和十四年に蒙彊連合委員会の要請に応じ、田辺が張家口の蒙彊学院の副院長に就任していたことを知った。それについて、田辺が一生の不覚だったという意味のことを述べていたことも。これを補足しておくと、昭和十二年に支那事変が始まり、日本軍が内蒙古を占領し、蒙彊連合委員会が設立され、十四年に張家口に徳王を主席とする蒙古連合自治政府が結成されている。

古本探究3

 それゆえに同時代の張家口には蒙彊学院の他にも、いくつもの学校や研究所などが設置されていて、そうした昭和十年代後半の蒙古の動向については、大東亜省と連携していたと考えられる。『日本近現代史辞典』にその立項が見つかるので、それを引いてみる。

 大東亜省 だいとうあしょう (1942.11.1~1945.8.25.昭和17~20)太平洋戦争の進展に伴い東条英機内閣時に新設された官庁。内地、朝鮮、台湾および樺太を除くアジアの地域に関する純外交を除く諸般の政務を施行し、同地域内の日本の商事、在留日本人に関する事務ならびに同地域にかかわる移植民、海外拓殖事業、文化事業を管理した。また対満事務局、興亜院の業務を総括し、関東局、南洋庁に関する事務も統理した。陸海軍に協力するため同地域内占領地行政に関する事務も扱った。このため外務省の権限は半減し、拓務相は廃止された。機構は総務、満洲事務、支那事務、南方事務の4局。(後略)

 おそらくこのような大東亜局の新設とパラレルに蒙古連合自治政府の首都である張家口の西北研究所も設立されたと見なせよう。そこに東京の財団法人善隣協会から分かれた蒙古善隣協会も置かれ、その資金は大東亜省からだされていたようだ。

 梅棹忠夫の『回想のモンゴル』(中公文庫)によれば、この蒙古善隣協会に調査部があった。それが改組され、「純粋なアカデミックな研究所として、中国の西北地区すなわちモンゴル以西の内陸アジアの本格的研究をはじめよう」として、西北研究所が設立された。所長として今西錦司、次長として石田英一郎就任とのことで、梅棹は今西に頼んで入所した。海野弘は『陰謀と幻想の大アジア』(平凡社)の「モンゴル」の章で、この梅棹の証言にふれ、昭和十九年時点で、モンゴルに「純粋なアカデミックな研究所」をつくったと本気で思っているのかと批判している。また『回想のモンゴル』における当時のモンゴルの政治状況と日本の関係についてまったく無関心であることは、江上波夫と同じだとも記している。

回想のモンゴル 陰謀と幻想の大アジア

 それは今西錦司も同様であろう。本田靖春の『評伝今西錦司』(岩波現代文庫)にも「西北研究所」の一章が設けられ、そのバックヤードについて様々に言及している。以前は東方文化研究所員であり、西北研究所の主任を務め、後に敦煌学の権威となる藤枝晃の善隣協会の証言が引かれている。藤枝によれば、それは新京から始まり、「つまり関東軍の一歩先に出ていって、民間に入り込むという謀略団体」だった。それを受けて本多は、善隣協会が近隣諸民族との融和親善を図り、相互文化の向上に寄与することを目的にうたい、昭和九年に発足したと述べ、続けて大東亜共栄圏構想に寄り添い、西北研究所設立も「西北」中国にも勢力を伸ばしたいという野望がこめられていたと指摘している。ちなみに本連載577の回教圏研究所も善隣協会に属していたことは、「回教圏」もまた大東亜共栄圏構想に含まれていたことを物語っていよう。また石田英一郎にしても、大東亜省下にある興亜民族生活科学研究所からの転身だった。

評伝今西錦司

 それに蒙古善隣協会の場合、イスラム教徒のための回民女塾という女学校、卒業生をスパイとして潜入させる興亜義塾をも運営しえいた。後者の出身者がやはり中公文庫の『チベット潜行十年』の木村肥佐生、『秘境西域八年の潜行』(上中下)の西川一三であることも付記しておこう。また同じく中公文庫には、夫の法社会学者磯野誠一とともに西北研究所に在籍していた磯野富士子の『冬のモンゴル』も入っている。彼女は梅棹に先んじて同書を上梓し、梅棹の回想を異化するように、当時の自治政府と日本軍野関係も含めた実態を証言している。後になって『モンゴル革命』(中公新書)を著し、モンゴルの民間伝承を集めたモスタールトの『オルドス口碑集』(平凡社東洋文庫)やラティモアの『モンゴル』(岩波書店)を翻訳することになる。

チベット潜行十年 秘境西域八年の潜行 冬のモンゴル オルドス口碑集  f:id:OdaMitsuo:20171014174349j:plain:h113

 そして戦後を迎え、西北研究所やモンゴル研究の関係者たちがいた外務省管轄の東方文化研究所は、文部省に移管された後、京都大学に併合され、人文科学研究所へと移行する。そのかたわらで、今西錦司、梅棹忠夫、中尾佐助、藤枝晃なども京都大学へと戻り、西北研究所の成果として、今西は『遊牧論そのほか』(平凡社ライブラリー)、梅棹は『文明の生態史観』(中公文庫)、中尾は『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書)を著していくことになる。それゆえに西北研究所と蒙古=モンゴルは、それらの前史を形成していると見なせよう。
遊牧論そのほか 文明の生態史観  栽培植物と農耕の起源 


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古本夜話718 江上波夫と東亜考古学会蒙古調査班『蒙古高原横断記』

 本連載357の『瓜哇の古代芸術』や前回の『大同の石仏』ではないけれど、昭和十年代から、「東亜」に関する図版写真入りの報告書や研究などが多く出されていくようになる。そのような一冊が、これも本連載706の日光書院から、昭和十六年に刊行されている。それは東亜考古学会蒙古調査班による『蒙古高原横断記』で、初版は十二年に朝日新聞社からの刊行である。これは未見だが、「忽ち売切れ絶版」となってしまったので、日光書院での「変改補訂」版の出版になったようだ。しかしそれでも入手したのは十七年二月の第三版であるから、大東亜戦争下における確実な需要と読者の存在が見こまれていたことになろう。例によって、この一冊も浜松の時代舎で購入している。
f:id:OdaMitsuo:20171011115622j:plain:h120(『蒙古高原横断記』、朝日新聞社版)

 この『蒙古高原横断記』にふれる前に、まず東亜考古学会のことを示しておこう。日本考古学協会編『日本考古学辞典』(東京堂出版、昭和三十七年)の中にそれを見出したからである。
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 東亜考古学会 とうあこうこがっかい [一般]大正14年(1925)に、時の京都大学教授浜田耕作・東京大学助教授・北京大学教授馬衡ら相はかって、東亜諸地域の考古学調査・研究ならびに普及を目的として創立した学会。昭和2年(1927)3月東京大学において第1回総会を開き、4月南満州の貔子窩において先史遺跡の発掘を行ったのを始めとして、以後、大連・北京・東京・京都などで学会を催し、また南満州の牧羊城・南山里・営城子・羊頭窪、北満州の東京城・熱河赤峯・蒙古ドロンノール・中国河北省邯鄲・山東省曲阜・山西省万安その他で城址・墳墓などの発掘を行った。それぞれ報告書を刊行し、東亜考古学会の発達に寄与したが、終戦後はもっぱら対馬・壱岐・北海道各地の調査に力を注いでいる。

 まさに『蒙古高原横断記』はこの東亜考古学会の「報告書」のひとつということになろう。この調査は昭和六年と七年の二回にわたって、家蒙古錫林郭爾(シリンゴル)、及び鳥蘭察布(ウランチャップ)地方の地質、人類、古文化研究を目的として行われたものである。その範囲は見返しの「東亜考古学会蒙古調査班旅行概要図」に示されているように、東は大興安領東麓より西は陰山山脈の西端の戈壁(ゴビ)に及ぶ内蒙古高原の全域にわたり、横断している。学術的報告書は東方考古学叢刊の『蒙古高原』二巻として刊行予定となっていたが、刊行されず、前篇だけが座右宝刊行会から出されたようだ。その一方で多くの写真と図表を添え、タイトルに「横断記」を付した旅行記といえる『蒙古高原横断記』が出版されたのである。

 その第一章が昭和六年、第二章が十年の記録で、当時の探検隊員は前者が横尾安夫、江上波夫、松澤勲、竹内幾之助、後者が赤堀英三、江上だった。日光書院版は第三章の「蒙古雑記」を含め、三一八ページからなり、その特徴は五〇ページ余に及ぶ、百枚近い口絵写真と七〇の図版で、それらを見ていると、蒙古と大東亜共栄圏幻想を浮かび上がらせているようにも思えてくる。旅行記の記述はいずれも興味尽きないが、とりわけ図版が施された部分は本連載665と絡んで、奇妙なリンクをさえ想起させてくれる。

 それは第三十四図の「オロン・スム土城内に遺存する景教十字墓石」で、徳王を盟主とする自治政府が置かれた百霊廟盆地の近郊にあった。「オロン・スム」とは「沢山の廟」を意味し、土壁に囲まれた古城だった。その城内には多くの建築物が崩壊したかたちで残り、かつては壮麗な建物が並んでいた往時を偲ばせていた。しかしその中でも、「我々の興味を最も惹いたのは、北壁に近く存在する一つの建築址の周囲に十字架を刻んだ所謂景教の十字墓石が立ち竝んでゐたことであつた。従つてそこが元時代のクリストたる景教の墓地址或は寺院址たることは殆んど明白であつた」。

 そしてこの土城址は元代の熱烈な景教徒の王族によって築造されたものだとの説明がなされ、その景教十字墓石の図版が添えられて、「この土城址は今回の内蒙古旅行中我々の遭遇した最も重要な遺跡の一つであつた」し、「素晴しい発見」とまで呼んでいる。これは執筆者が明記されていないけれど、江上波夫と考えて間違いなかろう。ここで江上は佐伯好郎の中国における景教碑発見譚を重ね合わせたにちがいないし、それが戦後の『騎馬民族国家』(中公新書)としてまとめられる騎馬民族日本征服説のコードの一端を形成することになったのではないだろうか。

騎馬民族国家

 しかしこの旅行記成立のバックヤードも記しておくべきだろう。これは触れなかったが、前回の『大同の石仏』は蒙古の一部族の拓跋族が残したものとされ、小川晴暘は同じく百霊廟の寺院も訪ね、蒙古人の生活と雲岡の石仏、日本の飛鳥奈良時代の彫刻との共通性を考え、蒙古人と日本人は同じ血が通っているのではないかとの思いも抱いたのだった。その北支から蒙古の旅と生活は現地軍、特務機関、善隣協会、大門領事館、東方文化研究所、晋北政庁の世話になったと「後記」に記されている。

 それは時代が先行するにしても、『蒙古高原横断記』も同様で、日光書院版の「例言」には当時の張家口領事館、満鉄、支那駐屯軍、関東軍、参謀本部などの「激励と助力と親切」、「諸氏の恩恵」がしたためられている。この事実は東亜考古学会蒙古調査班がそれらと併走し、大東亜共栄圏のパラダイムに添うかたちで学術調査を敢行したことを物語っていよう。その残映が江上波夫の『騎馬民族国家』だったのかもしれない。

 なお前回も名前を挙げておいた東方文化研究所の水野清一に『東亜考古学の発達』(大八洲出版、昭和二十三年)があり、これに戦後の成果が総まとめされているようだが、まだ入手に至っていない。


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