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古本夜話411 松川健文と『好色文学批判』

前回『誹風末摘花』は江戸の天保時代から戦前にかけて、ずっと禁書扱いにされ、その発禁の厄が解かれたのは昭和二十五年のことだったと書いた。それは同二十三年に葛城前鬼と柳田良一の校注共著として、『新註 誹風末摘花』が出され、発禁処分を受けたが、発行者の松川健文は裁判にもちこみ、猥褻文書に非ずという無罪判決を受けたことによっている。なお葛城は松川、柳田は岡田甫のペンネームである。
誹風末摘花 『新註 誹風末摘花』

この『新註 誹風末摘花』の出版とパラレルに『エロス』第一輯として、ロゴスから『好色文学批判』が刊行された。これは編纂兼発行者をやはり松川健文とする雑誌で、第二輯は『荷風文学研究』と予告され、ここに松川たちと『誹風末摘花』研究も荷風の系譜上にあることが示されている。『好色文学批判』と銘打たれているが、内容は冒頭の「編輯者識」にもあるように、「文学に現れたるエロチシズム」特集で、それこそ日夏耿之介、佐藤輝夫、矢野目源一、小西茂也、丸木砂土、安藤一郎などの外国文学者たちが、各国の作品とエロチシズムの関係を論じている。末尾に置かれた夏川文章の「猥褻性に就いて」はこれだけが上下二段組となっていて、最も長いもので、これがこの特集の眼目だとわかる。ちなみにいくつかの証言により、夏川と松川は同一人物だとされる。おそらくこれが戦後において、初めて出された最も正統的な「猥褻性」に関する見解ではないだろうか。

夏川は「猥褻」や「エロ」といった言葉における、時代や社会による相違から始め、芸術問題と法律問題に関しての多くの混乱と錯綜、ポルノグラフィの定義への見解、芸術作品が必然的に内包してしまう猥褻性とエロチックなモチーフ、道徳と性的器官をめぐる問題、タブーの起源などを検討した後で、次のように言っている。

 猥褻性とは、狭義にあっては性的器官及びその機能が、広義には心理的に又物理的に、これに関連する一切の事象がわれわれのうちに惹起する一定情況下に於ける情緒的反応である(中略)。即ち性的欲求を喚起する傾向を猥褻性とする見解である。この主張の基礎とするところは性欲の蔑視、若しくは罪悪感である。(中略)しからば性欲を獣欲とする限り、われわれ自身が、尊敬すべきわが親の獣欲の結果であり、わが最愛の子がわれわれ自身の淫情の結果といわざるを得ない。

そしてハヴロック・エリスの『性の心理』にある「人間の性的欲求こそ動物的どころか、人間の有する最も非動物的特性である」との言が引かれ、性に関するタブーを有する原始的観念、性的本能を罪悪とする宗教的観念、性欲を獣欲と見なす悪しき自然主義の観念を排し、次の結論に至っている。

性の心理(『性の心理』、未知谷版)

 われわれにとって猥褻性とは、要するにある時代の、ある社会圏に於ける性的事象についての慣例に矛盾するところの、ある種の表現様式を意味するに過ぎない。それは客観的には社交儀礼の違背若しくば善き趣味の欠如であり、主観的には性的事象に対する、時には牽引的な、時には反発的に働くあくまで心理的主体に依存するきわめて可変的な情緒的反応にすぎないのである。

『新註 誹風末摘花』の発禁処分は四月であり、『好色文学批判』の刊行は九月となっているので、猥褻文書編纂発行容疑で起訴された松川=夏川は、ここに示した「猥褻性」についての彼独自の見解を二年にわたる裁判で披露し、出版史上画期的と思える無罪判決を勝ち取ったのだろう。それはチャタレイ裁判やサド裁判に先行するものであり、後のふたつの裁判の有罪に対する影響はなかったのだろうか。

しかしこの松川についての言及は少なく、斎藤夜居『大正昭和艶本資料の探究』芳賀書店)において、ロゴスの松川健文は「書誌研究家(特にフランス文学)であると同時にニヒリストとしての性格」で、「その人間的特質には自由人としての正義感」があり、「同好の士を糾合して貴重な性文献をうけ継ぎ次代に伝えた功績は大きい」とも書かれているだけのように思われる。

大正昭和艶本資料の探究

だが前述したように『好色文学批判』の執筆者たちは翻訳家、外国文学者に加えて、国会図書館長の金森徳次郎、検事の植松正も含まれ、多くが大学教授であることからすれば、松川は戦前からの外国文学者で、アカデミズムの周辺にいたことは間違いないだろう。夏川名義の「猥褻性に就いて」から推測すると、英仏独語に通じているようで、それらの文献によって論が進められている。また法廷闘争に持ちこみ、無罪にこぎつけたことを考えれば、司法に通じていたとも思われる。

それに葛城前鬼、夏川文章が彼のペンネームであったように、松川健文も別名である可能性も高い。それもあって、ロゴスと松川についてはもう一編書かなければならない。

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