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古本夜話819 ピチグリリ『貞操帯』と和田顕太郎

 もう一冊、建設社の単行本を取り上げておく。それは前々回、書名を挙げなかったけれど、ピチグリリ作、和田顕太郎訳『貞操帯』である。これは昭和六年の刊行なので、建設社の創業の翌年の出版物に位置づけられる。
f:id:OdaMitsuo:20180817110254j:plain:h120(『貞操帯』)

 和田顕太郎は本連載791の『バルザック全集』の『現代史の裏面』の翻訳者であり、「解説」も書いているので、その名前を記しておいたが、プロフィルはわからない。ところがピチグリリのほうは『世界文芸大辞典』に立項が見出された。それほど期待せず、念のため繰ってみたのだが、さすがだと思われる。それらをまず引いてみる。
f:id:OdaMitsuo:20180515120726j:plain:h120(『バルザック全集』)世界文芸大辞典(日本図書センター復刻)

 ピティグリッリ Pitigrilli(1893~1975)イタリアのユーモア作家。本名はディーノ・セーグレ Dino Segre といい、マッスィモ・ボンテンペッリと共にフランス・ユーモア翰林院の会員になつてゐる。観察眼鋭く、伝統を完全に無視する態度はイタリア人に嫌はれてドイツやフランスで云々される最も大きな原因の一つとなつてゐる。和田顕太郎訳『貞操帯』“La cintura di castita”(1920)の他二三の邦訳がある。

 建設社の『貞操帯』には函にしても本体にしても、立項の最後のところに見られるイタリア語タイトルが記載され、それはこの翻訳がフランス語からの重訳ではなく、イタリア語からの直訳であることを示唆しているのだろう。「序に代へて」という「作者と訳者」なる一文を寄せているのは丸木砂土で、彼はすでに本連載50でふれているように、秦豊吉のペンネームである。

 そこで丸木はピチグリリが「贅沢と、好色と、耽奇と、現代の作家」で、「伊太利のモオパツサン」だと指摘し、イタリアのベストセラー作家であり、すでに二十一ヵ国語に訳され、そこに日本語訳も加わったと述べている。そして「初めてこのピチグリリの日本訳を出す、訳者和田君」の「極めて温雅な、しかも洒麗た、その流暢な訳筆は、僕の極力推賞する処で」、「面白い作者と、好い訳者と、僕はこの二人を紹介するのが、大に愉快です」と結んでいる。

 艶笑随筆の書き手である丸木の結びつきは定かでないけれども、それに続く「ピチグリリ自叙伝」の次のような記述を読むと、「面白い作者と、好い訳者」に「大に愉快」になっている丸木の顔が浮かんでくるようだ。

 十九歳の時、眼鏡をかけた女に、年下の僕から恋をした。眼鏡をかけた女の裸体ほど、グロテスクなものはない。かふいふ恐ろしいものを見た撲は、将来に重大な影響を受けた。それは丁度、子どもの時ひどく驚いたりすると、大人になつても丈夫になれないのと同じである。

 この「自叙伝」を始めとして、十編が収録されているが、ここではやはりタイトルとなった中編「貞操帯」に言及すべきだろう。主人公の外科医を業とするチルメニ君は女友達に、あなたは乱暴だから恋人ならいいけれど、旦那には向かないといわれ、結婚せずに四十の阪を越えてしまった。すると友人が止めるのも聞かず、ある日、娘が一人いる未亡人と結婚した。だが金はあるのでずっと妾がいて、彼女は古強者のあばずれ女で、唄歌いであったことから声楽家と呼ばれていた。チルメニ君は結婚したけれど、若く美しい細君よりも、年を取った恋人である声楽家に真の愛を傾けていた。

 それでいてチルメニ君は細君のフエルカに嫉妬深く、「命の泉の傍にある女の粘膜が、ほかの男の粘膜に接触」することを怖れていた。それは中世の騎士の悩みと同じで、貞操帯のことすら思い浮かべるのだった。フエルカは夏の間、娘を連れて海岸の別荘で暮らし、夫を待つのだが、娘の家庭教師として、物理学者ハンス、神学者ナルデリ、元判事が同行していた。この三人は道徳家として認められ、娘のための同伴だったが、それはチルメニ君の依頼によるものであった。「実はこの三人が貞操帯を形作つてゐる。フエルカの腰にしつかり巻付いてゐる貞操帯」で、チルメニ君は「この三人の模範的道徳家を、粘膜の番人として付けて置く」ことにし、中世の騎士のような安心感を味わっていた。

 しかしその一方で、美しい細君と三人の道徳家は恋の戯れ、不義を想像せずにはいられないような海辺の環境の中にあった。そうして彼女の寝室に物理学者と神学者が続いて誘われ、元判事もボートの中で誘惑されてしまう。ところがチルメニ君は「何しろ番人が三人だから」、「粘膜の接触だけ」は「大丈夫、起らなかつた」と安心し、彼らにアルジェリア煙草でいっぱいになった金ぴかの箱を土産に持ってきたのである。

 その翌年、チルメニとフエルカはパリへ旅行し、貞操帯を展示してあるクリニュー博物館を訪れた。彼は病的なまでに嫉妬心の強いこともあって、パリにくるたびにそれを見ないではいられないのだ。するとフエルカが番人に尋ねる。その鍵は夫が戦場に持っていったのか、鍵はひとつなのかと。それに対し、番人は答える。どこの奥方も自分で金を出し、合鍵をいくつもあつらえていたでしょう。それを聞いて、フエルカは海辺の別荘での三人の男を思い出したが、チルメニのほうは「野蛮な器具」を惚々と見つけているだけだった。

 この「貞操帯」を読んだだけでも、丸木のいうところのピチグリリの「極めて温雅な、しかも洒麗た」文体と皮肉な男女観察、和田の「流暢な訳筆」がよく伝わってくるし、「面白い作者と、好い訳者」の組み合わせだと了承するのである。この一冊の他にも和田はピチグリリを訳しているのであろうか。

 なお最後に付け加えておくと、奥付の印刷所は、東京新しき村印刷場となっている。とすれば、建設社は創業したばかりであり、発行者の坂上眞一郎は白樺派と「新しき村」の関係者であったのかもしれない。


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