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古本夜話155 財政経済学会と『新聞集成明治編年史』

草村北星が龍吟社を興すに伴って様々に試みたのは、編集と製作、流通販売の分社化に加え、流通販売の革新も同様だった。

そのことについて、誠文堂新光社小川菊松『出版興亡五十年』の中で、次のように書いている。
『出版興亡五十年』

 草村北星が創立した隆文館は、一般の出版業であったが、一方に大隈侯を総裁に仰いで、大日本文明協会を組織し、五十巻の翻訳書を刊行して、外交販売で成功し、また隆文館名で発行した「大日本美術略史」という、一冊百円の豪華本を外交販売に付し、また建築工芸学会を組織して、「建築工芸資料」を定期的に刊行して、これも外交販売の一手であった。同氏は隆文館を引退してから、竜吟社を創立、別に財政経済学会を組織して、共に外交ものばかり出版した。「明治大正財政史」や「明治経済資料」の数十巻ものを始めとし、「新聞集成明治編年史」「日蓮全集」「白隠全集」等々を続々発行し、最後に「ショパン楽譜全集」二十四巻を発行したが、その完成を見ずして物故された。

小川菊松のこの『出版興亡五十年』を始めとする回想と記録は、近代出版業界の貴重な資料であることを認めるにやぶさかではないのだが、書名や巻数に関する間違いや事実誤認も多いので、注意を払うことが必要である。

ここでもそれは同様だが、結びの一文である「『ショパン楽譜全集』二十四巻を発行したが、その完成を見ずして物故された」だけについて指摘しておく。これは『全集叢書総覧 新訂版』八木書店)によれば、昭和十六年に全十二巻予定で刊行され、最後の一巻だけが未完に終わった『ショパン・ピアノ曲全集』のことであり、また巻数不明の戦後版も昭和二十四年から出されている。草村が亡くなったのは戦後の昭和二十五年だから、すでに龍吟社を離れていたとも考えられる。だから小川の証言を鵜呑みにできないことがわかるだろう。実際に後者は音楽之友社に引き継がれている。それゆえに他の様々な証言に関しても、割り引いて考えたり、他の資料と照らし合わせる操作が欠かせない。

それゆえに小川が挙げているシリーズ物や全集のすべてが「外交販売」によっていたとの判断には留保をつけるべきだろう。言及が後になってしまったが、小川のいう「外交販売」とは狭義の意味において、取次、書店ルートではなく、全国規模で専門の外交員を雇い、その企画に見合った客層や職域に向けての販売のことである。小川も明確な定義を下しているわけではないけれど、様々な出版社を具体的に挙げているから、「外交販売」、つまり直販ルートもひとつの確固たる流通販売システムだったし、それは大正時代から昭和の初めにかけて、取次、書店ルートとは別に広く普及していったことが小川の証言からうかがえる。またそのために、北星は隆文館や龍吟社とは異なる「外交販売」=直販ルートのための会を組織し、それにふさわしい名前をつける必要があったのではないだろうか。それが大日本文明協会、建築工芸協会、財政経済学会だったと思われる。

それでは隆文館や龍吟社とその三つの会の関係はといえば、前二社が取次、書店ルートの単行本出版で、返品と製作コストのリスクがあることに対し、三つの会の場合はそれぞれが別組織で編集と製作コストを負担し、それを直販の「外交販売」で流通させるわけであるし、流通販売においては各会は隆文館や龍吟社のダミーと見なせるし、非常に安定した出版ビジネスということになる。

これはすでに『古本探究3』でもふれているが、それを昭和九年に財政経済学会から刊行された『新聞集成明治編年史』全十五巻に見てみよう。ただし私の所持する版は昭和五十七年に本邦書籍によって復刻された縮刷版なので、奥付表記だけは新しくなっていて、最初の奥付を確認できていない。それにどうもこの本邦書籍版は厳南堂書店版に続く、戦後二度目の復刻のようだ。
古本探究 3

この『新聞集成明治編年史』は冒頭のその「編纂会」の名による「刊行主旨」において、次のように述べている。

 本会は如上の諸事情に鑑み、前記『明治新聞雑誌文庫』の豊富なる資料の全面的渉猟によりて、玆に新聞記事による一大編年史―明治編年史―の編纂を企画し、以て社会の切望に応ぜんとするのである。すなはち我が国に新聞の創始せられて以来の、あらゆる新聞を捃摭纂録して一大縮図を作成し、公私一般の書庫に、個々の一大新聞図書館を建設して、その探索を極めて容易にし、以て多方面の参考資料たらしめんとするものである。これ正に活ける社会史たり、世相史たり、風俗史たり、国民史たり、時代を其の儘に眼前に開展するフィルムたり、約言して、揣摩臆測及び偏見的推理判断に尺寸の余地を与へず、一糸纏ふなき赤裸々の歴史其のものである。

明治新聞雑誌文庫」は博報堂の瀬木博尚が新聞雑誌の保存研究機関の設置実現のために、大正十五年に東京帝大にその基金二十万円を寄付したことで、法学部内に置かれ、その文庫主任は他ならぬ宮武外骨であった。その外骨の言も次に続き、その文庫の「明治時代の新聞紙が約八百七十種の三十七万枚、雑誌が約五千六百種の十二万五千部」に及ぶと記している。つまり「明治新聞雑誌文庫」は明治時代の一大データベースであり、それの「一大縮図」を作成し、「一大新聞図書館」を建設したことになる。そして編集者を中山泰昌とする『新聞集成明治編年史』はまさに快挙というべき出版企画であった。しかも第十五巻は一冊すべてが九万を数える「全巻索引」で、そこには無数の明治の人々の名前が見出され、その姿が浮かび上がってくる。

そして何と草村北星もまた登場しているのだ。それは明治三十六年以降で、文士としての記事の他に、『東京朝日新聞』に「明治歴史を渇望す」との論説を発表する北星がいる。その「渇望」は『新聞集成明治編年史』を編み、刊行するに至って、実現したといえるだろう。

だが大日本文明協会がそうであったように、「新聞集成明治編年史編纂会」に顧問、賛助員として百人近い錚々たるメンバーを揃えているが、ここでもまた北星の名前はない。佐藤能丸も「大日本文明協会試論」(『近代日本と早稲田大学』所収、早大出版部)において、私と同じく小川菊松の一文を引用し、北星のことを「言わば、影の仕掛人」とよんでいるが、『新聞集成明治編年史』においても同様であったことになる。

また小川は、草村が隆文館から教育図書著も多く刊行し、「『大日本地理集成』を皮切りとする同館の『集成もの』は十数種に及んで、いずれも能く売れた」と述べているが、この「集成もの」は現在に至るまで未見のままである。

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