出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話159 草村北星『戦塵を避けて』、原智恵子、『ショパン・ピアノ曲全集』

残された資料が少ないこともあって、草村北星の全体像は描くことができなかったけれども、出版者としての軌跡を、明治三十年代の隆文館から昭和二十年における龍吟社の実質的な消滅に至るまで、ずっと追跡してきた。

今回で草村北星に関する言及はとりあえずの終わりになるのだが、ここでこれまで明らかにしてこなかったひとつの事実を書き止めておくことにしよう。実は先行するスメラ学塾に関する連載とこれらの草村北星をめぐる論考は、あるひとりの人物を介在させると、別々に映るであろう物語がつながってしまうのである。私もこの人物に長時間インタビューを行ない、それぞれの論考を書くに至っている。

北星は『戦塵を避けて』の中で、孫のことを気にかけ、次のように書いている。

 長女M子の嫁げる芦屋西澤家留守宅の消息が不明なので、阪神空爆が激化せる昨今心配に堪へぬ。西澤一家奉天に存在し、留守宅は祖母と長男龍生が残つているのだ。而も長男は今春東京高師入学を志して合格し、七月から登校の筈だつたので、私共が万事の世話を托されてゐる中、はからず山陰落(おち)となつたため、或は出京のことに迷つてゐないかなど思ひ過さゞるを得なかつたのである。(中略)
 建築家の倅と生れて、国史を好み、幼時から歴史に因める絵本などに無我夢中であつたのが長じて十八年、国史専攻の志望をもつに至つたのだ。高師志望は社会情勢上から目的達成の最捷径と信じて選んだものらしい。

この十八歳の少年である西澤龍生が他ならぬ冒頭に挙げた人物で、スメラ学塾人脈へとつながっていくことになる。しかしまだそれを北星も本人も、まったく予測も自覚もしていなかったであろう。『戦塵を避けて』において、さらに何度も龍生への言及があり、敗戦後に日光の高師勤労隊から山陰の疎開への突然の彼の訪れとその滞在、芦屋への帰宅の様子も描かれ、それらへの記述は北星にとって龍生が最も気にかかる外孫のように映る。これは聞きそびれてしまったが、龍生という名前は龍年生まれに加え、龍吟社の一字をとって命名されたのではないだろうか。

戦後を迎え、西澤龍生は東京高師(東京教育大)を終え、京都大学へ進み、西洋史学を専攻し、京都学派の流れに加わり、スメラ学塾の中心人物だった小島威彦とスペイン研究を通じて交流するようになった。そして後に龍生はオルテガ『傍観者』筑摩書房)や『沈黙と隠喩』河出書房新社)などの翻訳に携わっていくのである。

その一方で、龍生は昭和三十二年に板倉加奈子と結婚する。加奈子は毎日新聞のパリ特派員板倉進の娘で、板倉もまた帰国後にスメラ学塾のメンバーの中枢をしめる「パリの日本人たち」の近傍にいたのだった。そのこともあって、板倉はピアニストの原智恵子とも親しく、加奈子は少女の頃にパリにいる智恵子からフランス人形を贈られて感激し、まだ見ぬ智恵子を「おば様」とよぶようになり、龍生と加奈子の結婚式の披露宴の新婦側主賓は智恵子であった。戦後における智恵子の川添紫郎との離婚や、スペインの名チェリストのカサドとの再婚を経ても、加奈子との関係は変わることなく保たれ、それは日本での智恵子の晩年まで及んでいく。

それらばかりでなく、加奈子の父の板倉進と、龍生の祖父の草村北星には、徳富蘇峰とのつながりで共通しているといえよう。北星は、蘇峰も設立に関係する熊本英学校の出身で、蘇峰の推薦で金港堂へ入り、出版者としての人生を始めているが、板倉も早稲田大学の講師を経て、蘇峰の『国民新聞』に加わり新聞記者への道を歩み出し、東京日日新聞社毎日新聞社へ移り、パリ特派員となっていったのである。

また板倉がフランス特派員として、第二次大戦の開戦前に日本に向けて打ちに打った電文は龍生によって解読され、さらにその伝記も添えられ、『パリ特電』(論創社)として刊行された。それ以前には毎日新聞の後輩記者だった山崎豊子によって、板倉をモデルにした『ムッシュ・クラタ』新潮文庫)が書かれ、ジャーナリストとして特異な生涯を送った板倉の人生が小説として残されている。
ムッシュ・クラタ

おそらくそのような山崎豊子や夫の龍生の営為に刺激を受け、範として、加奈子は『原智恵子の思い出』(春秋社、二〇〇五年)の上梓に至っている。同書は智恵子より加奈子に宛てた多くの書簡を中心にして構成され、原智恵子という名ピアニストの軌跡と、ヒロインに寄り添って生きた加奈子という少女の生活史が重なり合い、現在では失われてしまった馥郁たる物語を提出している。
原智恵子の思い出

だがひとつだけ残念に思われることがあるので、それだけは最後に記しておこう。加奈子はショパンのロマン派特有の魂の音楽に強く魅せられ、それが戦後の日本における智恵子の関西でのショパン演奏公演、偶然に見つけた智恵子の唯一のショパンSPレコード、その六年後の智恵子が師事したコルトーの日本来演などによって、ショパンにのめりこんでいった体験をつづっている。

本連載155で既述しておいたが、加奈子の夫の祖父の草村北星は昭和十六年に龍吟社から『ショパン・ピアノ曲全集』全十二巻を刊行している。これはおそらく楽譜の全集で、どのような経緯と事情によって企画が成立し、またどうして十一冊までは出されたのに、最後の一冊が未刊に終わってしまったのかはわからない。この『ショパン・ピアノ曲全集』にも音楽と出版をめぐるひとつの物語が潜んでいるにちがいない。

だからこそ、加奈子がその北星による『ショパン・ピアノ曲全集』のことを知り、それについて智恵子と話をする機会があれば、とても楽しい一夜を送れたのではないかと想像してしまう。何はともあれ、その『全集』を出版したのは義理にあたるとはいえ、自らの祖父であるのだから。

それにひょっとすると、智恵子は昭和十六年に帰国し、日本での演奏会など精力的に活動しているので、『ショパン・ピアノ曲全集』の出版を知っていた可能性が高い。だがたとえ知っていたとしても、それが加奈子の将来の夫の祖父が出版したとは想像もしていなかったにちがいない。人間と本との出会いはそれぞれ時代によるすれちがいもあるのだということを教えてくれる。

ただ私も『ショパン・ピアノ曲全集』は未見であり、入手に至っていない。

なお最後になってしまったが、西澤夫妻のご健康とご健筆を祈る次第である。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら