出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

草森紳一とリトルマガジン

草森紳一『中国文化大革命の大宣伝』(芸術新聞社)上下巻をようやく読み終えた。期待にたがわない力作で、文化大革命は若かりし頃にリアルタイムで起きていたこともあり、『ナチス・プロパガンダ 絶対の宣伝』(番町書房)以上の臨場感を伴って読むことができた。


中国文化大革命の大宣伝 上

中国文化大革命の大宣伝 下

宣伝の天才とでも称すべき毛沢東の水泳によるプロパガンダから始めて、紅衛兵に代表される「少年」と江青などの「女」を活用した俗と思想が一串になっている中国文化大革命の内実に肉薄し、あの時代を浮かび上がらせている。宣伝の天才に加えて、中国史を熟読することで、権力者の運命を透視していた毛沢東によって召喚され、次々に集結してくる「革命的大衆」のエリートとしての若い紅衛兵たち。それでいて「そもそも文革とはなにかよくわからない(今だってそうだろう)」彼らは、シミュレーションゲーム的な長征の後で、「四旧打破」(旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣の打破)という街頭闘争を展開し、「四旧」の象徴たる商店、寺院、博物館、図書館などの破壊、商品や本や骨董品などの押収と没収に狂乱する。つまり毛沢東が牛耳る政治宣伝に操られ、紅衛兵は「見境なく破壊しただけでなく、分捕りもした」のである。そのありさまを草森は次のように書いている。

少年少女たちはいとも簡単にその宣伝にのって躍る。悪のりさえもする。子供だったから、なにもわからなかったとあとで言ったところで、むなしい。あとの祭である。

草森は忘れずに「大人も躍る」と付け加えてもいる。しかし文化大革命の先達を担った紅衛兵の位置は、労働者による毛沢東思想宣伝隊にとって代わられ、紅衛兵は農山村へと下放され、後年になってそこから多くの小説や映画が立ち上がっていくことになる。

執筆年は異なるとはいえ、同時期に小熊英二『1968』新曜社)が刊行されたのは偶然のように思われず、小熊の著書のかたわらに『中国文化大革命の大宣伝』を備える必要があるのではないだろうか。

ところで草森が亡くなったのは、〇八年三月だった。私は草森の年少のファンだったこともあり、没後に、連載中の「古本屋散策」(『日本古書通信』五、六月号)で、彼の追悼文をしたためた。そして未完の大部の副島種臣の評伝の出版を望む旨を書いておいた。

しかし副島の評伝は出版されていないが、没後に草森の著作が異例なほど刊行され続けている。本書以外のものを挙げてみる。


『夢の展翅』

『不許可写真』

『「穴」を探る』

『フランク・ロイド・ライトの呪術空間』

『本の読み方』

青土社 (文春新書) 河出書房新社 (フィルムアート社) 河出書房新社
これらの著作の刊行事情には通じていないが、『中国文化大革命の大宣伝』は巻末に「刊行にあたって」の一文が掲載され、出版に至る経緯が述べられている。これは「芸術新聞社」名で記されているが、奥付に出版者相澤正夫とあるように、その一文は彼が書いたものだ。相澤は草森と長い親交があり、草森の死を発見したのは相澤だった。鍵もかけていない「氏の部屋を訪れると、三万冊とも言われる蔵書は壁のごとく積まれ、中へ入ることすら困難なほど」であり、その中で「草森氏の突然の訃報に触れること」になったのだ。 『中国文化大革命の大宣伝』は『広告批評』に一九八九年から九九年にかけて連載されたもので、草森は文学者でも評論家でも研究者でもなく、自ら「雑文家」を名乗り、多くのリトルマガジンに膨大な分量の「雑文群」を書いてきた。私が高校生時代に草森を知ったのも、今はなき『話の特集』というリトルマガジンからだった。これは確かめていないが、没後刊行された著作も、多くはリトルマガジンに掲載されたものではないだろうか。そういえば前述の『ナチス・プロパガンダ 絶対の宣伝』も『宣伝会議』に連載されたものだった。だから草森の「雑文群」は、六〇年代以後に簇生したリトルマガジンとともに併走してきたことになる。そして出版業界は雑誌危機の時代を迎え、『広告批評』の終刊に象徴されるように、リトルマガジンの休刊が相次いでいる。草森の死はその予兆のようにも思えてくる。また草森の残した膨大な「雑文群」は評論も研究も超越し、とめどもなく広くて深い森のようにも見えてくる。 相澤によれば、二千枚の『中国文化大革命の大宣伝』は初版三千部だという。読者よ、ぜひ『中国文化大革命の大宣伝』を購入、もしくは図書館へリクエストしてほしい。初版を完売すれば、三千枚の李賀伝、五千枚の副島種臣伝の刊行も可能になるかもしれないからだ。