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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

続『書棚と平台』を批評する 1

 柴野京子の『書棚と平台』をめぐって、福嶋聡の「出版界をめぐる様々な状況と対応 話をややこしくしているもの」(『Journalism』9月号所収 )、箕輪成男の「メディアとしての出版流通論」(『出版ニュース』9月中旬号)が書かれ、同書に関する様々な肯定的「言説」が流通し始めている。それはこれからも続くだろう。

書棚と平台―出版流通というメディア

 だからここでさらに踏みこんで批評しておかなければならない。なぜならば、彼女の著作を評価するばかりでなく、注意を促しておかないと、『書棚と平台』の「言説」は近年の出版史の事実を歪曲しているにもかかわらず、新しく登場してきたトーハン出身、東大大学院在籍中の女性研究者という経歴と肩書、及び日本出版学会の全面的バックアップによって、あたかも真実であるかのように、カノンとして受容されかねないからだ。

 そして同時に、前回私が書いたように「この本は真の出版危機の在り処を一時的に別方向に導く危険性を孕んでいる」。この言葉は佐野眞一の『だれが「本」を殺すのか』がもたらした現象にも当てはまるが、『書棚と平台』も柴野が批判している佐野の著書と同様の役割を果たしてしまう危惧をも含んでいる。

だれが「本」を殺すのか〈上〉 (新潮文庫)

 柴野の著作は彼女自身も属している日本出版学会(以下学会と表記する)の意図を背景にして成立しており、そのことを抜きにして語れないと思う。ここでいう学会の意図であるが、もちろんそれが学会全員の意図と拡大解釈するつもりはない。だが学会の大勢を占めていることは間違いないであろう。したがって今回は学会も含めて言及したいので、長くなってしまうこともあり、連載というかたちをとる。

 まずはジュング堂の福嶋聡の「出版界をめぐる様々な状況と対応 話をややこしくしているもの」から始めよう。福嶋のこの出版レポートの前半には私も出てきて、現在の危機の中における出版状況と再編、グーグル問題への言及がある。そして後半になって、柴野の『書棚と平台』から「話をややこしくしているのは、出版産業体の経営問題と一般的な読書問題との混同である」との言を引いた後で、福嶋自身による「読者の文字情報へのアクセスルート」のチャートが示される。そしてリアル書店での「購買」理由を、書物のコンテンツとブランド性におき、「それこそ、出版=書店業界の存在理由(レゾン・デートル)」だと言っている。つまり福嶋は柴野の論を自らの立場に引きつけ、出版危機の中においても、彼から見たコンテンツとブランド性を備えた書物さえ出版社が持続して刊行できれば、グーグル問題やアマゾンの脅威があっても、それは売るし、売れるだろうし、そのことによって「書店業界」というよりも、ジュンク堂はサバイバルしていくと述べていることになろう。

 ここで福嶋は、柴野の示した「市場の論理」と「文化の論理」の二分法を応用し、出版危機は「出版産業体の経営問題」、書物プロパーは「一般的な読書問題」と位置づけ、このような見解を披露している。それゆえに、彼はレポートタイトルに、柴野の言に起因する「話をややこしくしているもの」を付しているのである。

 しかしこれは出版社の現実を知っている者からすれば、額面通りに受け取ることはできない。出版社にとって、「経営問題」と「一般的な読書問題」は不可分である。出版危機が、福嶋の信じるコンテンツとブランド性を備えた書物の出版を不可能にしていることは明瞭であり、まったく切り離して論じられるはずもない。福嶋も私を援用し、「雑誌に支えられた日本の近代出版流通システムが立ちゆかなくなったことが、危機の大きな原因であろう」と書いている。だから、そのような二分法が通用するのは、研究上の「人文書空間」だけであり、出版物全体に適用することができないとわかっているはずだ。

 日本の近代出版流通システムが「市場」と「文化」を相携え、つまり流通と金融を車の両輪として作動してきたのは自明のことではないだろうか。例えば、福嶋のいうコンテンツとブランド性を備えた一冊の書物が、書店の店頭に並べられる。それはまだ読者に「購買」されておらず、書店の売上に換金されていなくても、出版社から取次を経て、書店へ届けられる過程で、金融メディアとしての機能を果たしている。だからこの一冊の書物は「文化」と「市場」の双方の役割を演じているのである。それゆえに出版業界において、分かち難い「混同」を宿命づけられており、表裏一体の関係におかれている。

 本ブログの「草森紳一とリトルマガジン」でも書いたことだが、草森の未刊の大作が出版できないこと、及び福嶋もコンテンツとブランド性を備えていると考えているはずの晶文社の事実上の休業は、まさに出版危機の只中に起きている事実である。それは一冊の書物が流通は可能であっても、金融の役割を果たすことができなくなった出版危機を象徴している。

 だから「出版産業体の経営問題」=「市場の論理」と「一般的な読書問題」=「文化の論理」の混同や二項対立をいともたやすく排除し、「人文書空間」だけの概念にすぎない、長谷川一の「エディターシップ」や吉見俊哉の「文化的公共圏」を継承し、流通メディアとしての可能性を提言する柴野の「言説」は、現在の出版危機状況の中にあって、余計に「話をややこしくしていること」になるのではないだろうか。

 柴野の『書棚と平台』の「文献一覧」で、福嶋の『希望の書店論』(人文書院)が挙げられ、彼女による「真摯な問題意識がうかがえる」というコメントが寄せられている。そのこともあってか、福嶋もまた『書棚と平台』に「真摯な問題意識」を過剰に寄せたように思われる。彼はこのレポートの中で、私の名前を挙げ、私なら危機にある「業界全体」に「さらに活を入れるであろう」と書いているので、ご期待に応える意味で、このような一文を草してみた。

希望の書店論

次回につづく)


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