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古本夜話128 ロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』とダヴィッド社

「パリの日本人たち」の一人である丸山熊雄の『一九三〇年代のパリと私』鎌倉書房)を読んで初めて知ったのは、彼らと報道写真家のロバート・キャパが親しく、川添紫郎と井上清一のアパートに転がりこんでいたという事実だ。そのような前史があったために、昭和三十一年にダヴィッド社から刊行されたキャパの『ちょっとピンぼけ』の訳者として、二人の名前が連ねられている事情を了解した次第だ。

ちょっとピンぼけ ダヴィッド社 ちょっとピンぼけ 文春文庫

そのダヴィッド社版は一九七九年に文春文庫化され、手元にある九二年版は第21版とあるので、確実に版を重ねてきたことになる。

そこであらためて、小島威彦の『百年目にあけた玉手箱』を見てみると、第三巻に「チェコ人の写真家」で「アンドレとの恋人チガニー」が出てくる。しかしその後で二度、「ハンガリー生まれ」の「肖像写真家チガニー」を訪ねているが、これはキャパの本名のアンドレと恋人のゲルダの名前を混同していて、明らかにキャパのことである。これは年齢ゆえに無理からぬことではあるにしても、小島の回想には混同も多く、ヒトラーの愛人エバ・ブラウンとナチオリンピック映画『民族の祭典』を撮ったレニ・リーフェンシュタールが同一視されている。
民族の祭典

私が最初にキャパの『ちょっとピンぼけ』を読んだのは、筑摩書房『世界ノンフィクション全集』第40巻所収の抄訳で、確かめてみると、訳者名は川添浩史、井上清壹となっていた。二人は戦後になって、改名、改字した時期があるのだろう。だが当時はもちろん二人が「パリの日本人たち」であることを知るはずもなかった。

その後八八年にリチャード・ウィーラン『キャパ その青春』沢木耕太郎訳、文藝春秋)も出されているので、目を通してみると、パリの毎日新聞支局で月二十ドルのアルバイトを見つけたとあり、「彼はその仕事を川添浩史と井上清一という二人の日本青年を通じて手に入れた。彼らとはその夏カンヌで出会い、秋にパリに戻ってから親しい仲になっていたのだ」と書かれていた。それだけでなく彼がスペイン市民戦争の写真を売りこむにあたって、アンドレ・フリードマンからロバート・キャパに名前を変えたように、恋人のゲルダ・ポホレリスもゲルダ・タローと名乗るようになり、彼女もその名前で、写真を発表し、それは岡本太郎から借りたものだった。つまりキャパもゲルダも「パリの日本人たち」のまさに近傍にいたのだ。しかしウィーランの評伝にそのことはふれられていない。
キャパ その青春

それではどうして川添と井上が『ちょっとピンぼけ』を翻訳し、ダヴィッド社から刊行することになったのかを考えてみたい。

キャパは第二次世界大戦の各地の前線で戦争写真を撮り、『ライフ』などに発表し、著名になる。戦後の一九四七年に写真エージェンシーの「マグナム」を、カルチェ=ブレッソンなどと設立し、アメリカに移っていた。そして五四年に川添を介して毎日新聞に招聘され、日本を訪れ、日本でも写真を撮っている。

しかし『ライフ』からの仏印戦線の報道依頼を東京で受け、キャパは羽田からベトナムに向かい、ハノイ南方の戦場で地雷にふれ、四十一歳で死んだ。

『ちょっとピンぼけ』の原書Slightly Out of Focus は四七年に出され、五四年に井上がキャパの母から渡米記念に贈られたものによっている。すでに当時各国語の翻訳も含め、絶版となっていたという。だが奇妙なことにウィーランの評伝はこの本の成立事情や出版に関して、何の言及もなされていない。
Slightly Out of Focus

『世界ノンフィクション全集』第40巻の訳者紹介や丸山の証言によれば、戦後川添と井上は高松宮の元屋敷である高輪の光輪閣に関係し、川添が総務、井上が絹を展示するシルク・ギャラリーにいて、二人は欧米に日本の文化や芸能を紹介する仕事に携わっていた。彼らがキャパとの友情から『ちょっとピンぼけ』を訳すに至った事情は、文庫版の井上の「キャパが生きていた時代」という一文にも明らかだが、それがどうしてダヴィッド社から出版されることになったのだろうか。

これからは私の推理であり、この出版にも「パリの日本人たち」の人脈が絡んで実現したと思えてならない。本連載125「『パリの日本人たち』と映画」のところで、鈴木啓介の名前を挙げ、彼が山吉証券の社長の息子であると注を加えておいたが、鈴木は証券会社の社長だったと丸山が書いていることからすれば、帰国後、もしくは戦後になって、山吉証券を継いだのであろう。そしてまた井上だが、彼は小島によって熊本の米相場師の息子を紹介されていた。だが丸山は大きな株屋の息子だと書いている。とすれば、鈴木啓介と井上清一はそのような環境から戦後も関係があったと考えられる。またこれは後述するつもりでいるけれども、スメラ学塾の仲小路彰は戦後証券業界の黒幕だったとされる。

実はダヴィッド社とは、日興証券の社長であった遠山元一の三男の直通が昭和二十三年に創業した出版社なのである。その兄の一行は戦後パリに留学し、音楽研究と批評に携わり、遠山音楽財団を設立し、夫人の慶子はピアニストとして著名である。戦後とはいえ、ここにも「パリの日本人たち」に連なる夫婦がいる。

このような証券業界と「パリの日本人たち」の人脈を背景にして、キャパの『ちょっとピンぼけ』はダヴィッド社から川添と井上の訳で刊行されることになったのではないだろうか。

なおキャパの写真集は同じくダヴィッド社より『戦争―そのイメージ』(井上清一訳)、やはり文藝春秋から『ロバート・キャパ写真集』(沢木耕太郎訳)など、かなり出されているが、『ロバート・キャパ決定版』(ファイドン社、〇四年)が集大成であろう。これには五四年来日時の日本での写真も含まれている。

戦争―そのイメージ ロバート・キャパ写真集 ロバート・キャパ決定版

キャパの本以外にも、ダヴィッド社は後に『ライ麦畑でつかまえて』で知られることになるサリンジャーの『危険な年齢』(橋本福夫訳)、サガンの『悲しみよこんにちは』(安東次男訳)、バタイユの『エロチシズム』(室淳介訳)をいち早く出版している。いずれも時期尚早でベストセラーにはならなかったようだが、当時としては先見の明ある、特筆すべき企画であったように思われる。

このダヴィッド社の創業と企画事情は山崎安雄の『第二 著者と出版社』(学風書院)の中でふれられているが、いずれもあらためて言及してみたい。

次回へ続く。

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