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古本夜話142 肥田春充『国民医術天真法』と村井弦斎

井村宏次『霊術家の饗宴』心交社)が明らかにしたのは、大正時代における霊術家たちの台頭ばかりでなく、同時に近代医学に接するような多彩な治病法や健康法も続々と名乗りをあげ、それらが現在でも存続していることである。これは同書に言及はないが、肥田式強健術もそのひとつと考えられる。
霊術家の饗宴

二十年ほど前に肥田春充考按、平田内蔵吉編述とある『国民医術天真法』を古本屋で見つけ、買い求めた。春陽堂から昭和十三年刊行で、裸本のためか、古書価は三百五十円だった。このような本を購入した理由はそのしばらく前に、甲野善紀『表の体育・裏の体育』(壮神社、昭和六十二年)を読んだからで、この本は大半が「多くの人々に支持されながら現在はまったくといっていいほど忘れ去られている」肥田春充の著作の引用と肥田式強健術の紹介で占められていた。そして壮神社による肥田の著作六冊の復刻も掲載があったが、『国民医術天真法』はそこに含まれていなかったし、またこの種の本と春陽堂の組み合わせに奇異な思いを抱かされもしたからだ。

だが『国民医術天真法』の巻末広告を見ると、平田の『国民医術平田式心療法』も刊行され、またこれはどのようなものかわからないが、平田の発明になる「国民療器」を春陽堂だけで販売するとあるので、平田と春陽堂の関係はかなり深かったと推測される。しかも平田は医者ではなく、文学士とあることに留意すべきだろう。口絵写真に「正中心腰腹錬磨法」の一連の動きが掲げられ、天真法の一端を垣間見せていたが、一種の体操のようで、『表の体育・裏の体育』に引用された、あたかもヨガのクンダリーニ覚醒を彷彿させる神秘的体験をもたらす身体術とは思われなかった。そのような先入観もあって、通読もしないままに時が過ぎてしまった。

ところがその後、様々なところにこの肥田春充が姿を現わしていることを知った。例えば中里介山であるが、昭和十年に書かれた『旅と人生』(『中里介山全集』第十八巻所収、筑摩書房)において、伊豆八幡野の肥田家を訪れ、二十年ぶりに会い、歓待を受けた話を書いていた。この山腹にある百坪に及ぶ肥田の広壮な邸宅は欅づくりの城郭のようだったが、甲野によれば、昭和六十一年に漏電で全壊し、肥田の残した多くの資料が失われてしまったという。

また山口昌男『「敗者」の精神史』岩波書店)の押川春浪と武俠世界社のところで、川合信水と肥田が登場し、二人が兄弟であると述べられていた。川合信水は旧幕臣の医師の長男で、キリスト教に入信し、東北学院神学部に学び、同学院の教師や新聞記者を経て、生まれ故郷の山梨県に戻り、東洋的な喧想悟道に基づく独特なキリスト教伝道に従事している。その弟が肥田ということになる。
「敗者」の精神史

あらためて『国民医術天真法』に目を通すと、「病める兄」は川合山月として号で記され、また「題字」の揮毫もしている。そして平田内蔵吉だが、春浪の系譜を引き、ナショナリズム冒険小説の児童文学者にして軍事問題評論家の平田晋策の兄である。したがって肥田の天真法の周辺には中里介山のような文学者、東北学院絡みのキリスト教人脈、『国民体育』の内容から推測できる軍部の人々とナショナリストが存在し、その「国民医術」は広範な影響と波紋をもたらしていたとわかる。

そしてさらに黒岩比佐子『「食道楽」の人 村井弦斎』岩波書店)を読むに及んで、村井もまた肥田の影響を受けていたことを知った。同書はこれまで知られていなかった『食道楽』の著者についての多くの事実を明らかにしている。『食道楽』の自費出版によるベストセラー化、それを一手に引き受けた篠田鉱造の回想は近代出版史のエピソードとして興味深い。私も報知社出版部刊行の『増補注釈食道楽』夏の巻、明治三十七年十五版を一冊だけ持っているが、その前史が初版三千部の自費出版であったことは認識していなかった。その他にも新事実がつめこまれているが、ここでは晩年の村井と肥田の関係にしぼることにしよう。

「食道楽」の人 村井弦斎 食道楽 上 食道楽 下

村井は当時の国民病とされた脚気をきっかけにして、玄米や半搗米を食する「米食改良論」を発表し、自らそれを実践し、次に『弦斎式断食療法』(実業之日本社)を著して断食に挑み、さらに木食を実行するに至る。そのような村井の試みに肥田の強健術、天真法が結びついていく。村井は『平民新聞』のパトロンである医者の加藤時次郎を通じて、肥田春充を知る。黒岩によれば、肥田の強健術は「まず知識人層に絶大な支持を得て広がり、新聞各紙が取り上げてその人気に火をつけた」。村井は肥田を招き、家族や書生たちの指導を依頼し、顧問だった『婦人世界』において、この強健術が「腹力」を基礎とし、内臓の強健を主眼とし、腹に力をこめて気合いをかけるので、日本人に最適の気分が爽快になる運動法だと推奨するに至る。

これらの健康法や霊術治療への傾斜、関東大震災と息子の自殺を経てから、村井は交霊術や透視、千里眼や念写、心霊現象に関心を寄せ、彼の意向の反映もあり、『婦人世界』にもそのような記事がかなり掲載され始める。そして千里眼についての遺稿を残し、昭和二年に亡くなっている。ベストセラー『食道楽』の著者の様々な健康法から心霊現象への関心に至る背景には、同時代に流入してきた英国心霊研究会のメンバーたちの著作、霊術家や大本教などの新興宗教の台頭、多くの健康法の流行などがあり、それらと連動したと考えて間違いないだろう。

なおその後、平田内蔵吉の『闘運術』(春陽堂、昭和六年十版)を入手した。同書によれば、平田は一燈園の影響を受け、春陽堂の健康と幸福・闘病闘運の雑誌『いのちの科学』に関係し、平田式心療法の実践に携わっていたようだ。その主著が『闘運術』であり、この平田も当時の治療法や健康法のイデオローグの一人だったことになる。

また蛇足ながら記しておけば、劇作家の平田オリザは内蔵吉の孫にあたる。

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