出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話157 建築工芸協会、岡本定吉、大塚稔

草村北星が隆文館を創業し、それと併走するかのように、大日本文明協会、龍吟社、財政経済学会などを設立してきた軌跡について、ささやかながらたどってきた。それらに加えて、さらに建築工芸協会も組織し、『建築工芸画鑑』『建築工芸叢誌』(ともに柏書房復刻)という二冊の月刊誌を創刊している。

建築工芸画鑑 建築工芸叢誌

本連載155で、『出版興亡五十年』における小川菊松の「建築工芸学会を組織して、『建築工芸資料』を定期的に刊行」という部分も含んだ、北星の出版事業に関する証言を引いておいたが、これらは例によって正確ではなく、私が挙げた協会名と雑誌名が正しい。
[f:id:OdaMitsuo:20120401152145j:image:h110]『出版興亡五十年』

北星は隆文館、大日本文明協会、龍吟社、財政経済学会、あるいは特定の出版企画のために立ち上げた様々な「編纂会」に関する証言を残していない。だが晩年になって、戦後の昭和ニ十一年に龍吟社から刊行した「疎開山村日記」である『戦塵を避けて』の中で、建築工芸協会だけはそれに携わった岡本定吉の思い出とともに、十ページ近くにわたって語られている。

北星は山陰に疎開した機会を得て、鳥取の岡本の墓に詣で、翁のことを寺僧と語り合った。彼は鳥取藩士の出で、田舎武士の面影を残していたが、明治半ばから後期にかけて、読売、やまと、毎日などの各新聞社に勤め、警察や社会種の探訪も兼ねた「当時の所謂三面記者」にして、「新聞社の下積みで無名一介の老記者」だった。それは青春時代に壮士芝居の女形を演じ、相当のものだったという経歴も作用していた。しかも文章に優れ、人にも親切で、軟派記者の中にあっても独り超然たるものがあった。

北星が金港堂の『文芸界』の編集長だった時、岡本が風俗、演芸、舞踊などの記事を寄稿し、また彼の紹介で、岡鬼太郎や岡本綺堂も艶筆をふるうことになった。そして北星が隆文館を設立すると、岡本は目と鼻の距離にある毎日新聞社員だったことから、よく出入りするようになり、さらに親しい関係になった。数年すると、岡本老は年令もあって、新聞社から退職を迫られることになり、北星に前途の相談をするに及んだ。ちょうどその時、北星は建築工芸の全分野にわたる研究を目的とする建築工芸協会の設立を目論んでいたので、その編集出版の話を持ちかけたところ、岡本老は喜んで引き受けることになった。そのプロセスについて、北星は次のように書いている。

 明治天皇の御諒闇中なりしも、建築工芸協会は其界大家達の参加を得て発足した。出版部に於ては「建築工芸画鑑」と「建築工芸叢誌」といふ二種の月刊を発表し、前者はタイプ、三色版其他当時の美術印刷技術の粋をあつめて、絵画外の国宝的重要美術図版の大成を期し、後者は無数の写真版を挿入せる専門大家の研究、論説、解説等の記事を満載、東京印刷の新鑄九ポ活字をアート紙に利用したもので、非常の好評を博し、会員も忽ち予定数を充たし得る盛況であつた。私の喜びもさることながら、岡本老の得意もなかゝゝであつた。

この会員制の両誌は未見であるのだが、「絵画外の国宝的重要美術図版の大成」をめざしていただけに、全国各地の寺社建造物のすべてに及び、彫刻、塔婆、彫金、木彫、蒔絵、織物、陶磁器なども含まれ、老の油の乗った指揮下に会の専門技師によって、膨大な写真が撮られた。彼は白面の一写真技師を専属の撮影係に推挙した。その撮影係こそは後の大塚巧芸社の社長となる大塚稔であった。大塚の技術は美術鑑識眼と相まって、「全くの天品」だったという。

明治後半における美術書出版の水準を確定できないけれども、この建築工芸協会と両誌の存在は、写真技術と出版に関するレベルを飛躍的に向上させ、後のその分野の絵画も含めた出版に多大な影響を及ぼしたと想像される。もちろんその中心にいたのは大塚巧芸社であったと考えられる。

北星も建築工芸協会時代はひときわ記憶に残るものだったようで、「岡本老の生涯中で本会の編輯出版担当中の約四ヶ年は、老が最も生き甲斐を感じた精彩ある生活期間であつたらしく思はれる」と書いている。これは北星自身も同様だったのではないだろうか。

しかしそのような「精彩ある生活」が出版に携わる限り、続くはずもなかった。建築工芸協会の事業は二期を経て、基礎も固まり、北星は老の希望によって、経営を譲り、関係を絶つことになってしまった。編輯に腕をふるった岡本老にしても、「一切の経営に任じては聊か重荷の上に勝手の違つた所もあつて、いつか会務も円滑を欠ぐ(ママ)やうになり、刊行物の発刊が遅れ、やがては何の彼のと障碍百出するに至つて、竟に本会も解散の已むなきに立到つた」。

会の解散に伴い、北星と岡本老の交渉は絶え、老は陋巷に隠れ、数千点の写真原板を生活費に換え、大塚の援助のうちに暮していた。だが耐え切れず、北星を来訪してきた。そこで北星は老に明治文化資料の収集を頼み、彼は龍吟社に三年余を過ごすことになった。最近になって入手した龍吟社の昭和十七年の本に、本庄栄治郎編『幕末維新』(日本経済史研究所、「経済史話叢書」第二冊、のち堀書店)があるが、これらの資料収集も含まれていたかもしれない。だが同年の厳冬、夫人に先立たれ、看護の人もなく、持病の喘息の急発作で生涯を寂しく終えた。通夜から葬儀、鳥取の祖先の墓への納骨まで、龍吟社の編集者たちと友人代表としての大塚が面倒を見たのである。

その三年後に北星は岡本老の墓に初めて参り、これら「去り難き思ひ」が走馬灯のように浮かんできたのである。おそらく明治から昭和にかけての近代出版業界には岡本老のような人々が多くいたにちがいない。しかしそれらの大半の人々は出版史に名前も残すことなく消えてしまっている。岡本老は北星によってその思い出が記されたことで、出版史の忘却から救済されたことになる。以って瞑すべしといえるだろう。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら