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古本夜話241 大村謙太郎と精華書院

前回、精華書院にふれたように、そこから秋田雨雀の『太陽と花園』が出され、それはほるぷ出版の「名著複刻 日本児童文学館」の一冊として、昭和四十九年に刊行されている。
『太陽と花園』

『太陽と花園』は大正十年の発行で、これが「創作童話」の一篇であり、先に大村謙太郎の『地の底』、後に小川未明『港についた黒んぼ』などが続いている。
港についた黒んぼ (旺文社)

秋田は『太陽と花園』の「序」にあたる「永遠の子供」において、近年童謡がひとつの進んだ詩の形式となってきたように、童話も小説や戯曲や詩歌と離れ、独立した形式を採り始めたと述べ、次のように記している。

 近来童話が立派な芸術の一分科として承認されるやうになつたことを私は愉快に思ふ。私はいつか、童話は同様の姉妹であると言つたことがあるが、私達人類が生活を意識した時にいちばん最初に与へられた文学形式は、実はこの童話であつた。童話(ママ)がすべての音楽の母であるやうに、童話はすべての文学の母であるといつていい。

そして「私達は実に永遠の子供」であり、童話とは「永遠の子供」に読ませるために書かれた火花だとの定義を与えている。おそらくこれも前回ふれた、大正時代における鈴木三重吉の『赤い鳥』に始まる童話、童謡雑誌の創刊は、秋田の述べているような童話や童謡に対する理念に基づいているし、新たな「児童の発見」をもたらしたといえるだろう。それらの理念を共有して児童書出版が立ち上げられていったのであり、その中の一社が精華書院だったと考えられる。

精華書院は『日本児童文学大事典』(大日本図書)に立項されているので、それを引いてみる。

 精華書院 せいかしょいん 出版社。一九一八(大7)年(推定)、林虎之助が東京牛込区津久戸町に創業、後を大村謙太郎が継いだ。吉江孤雁らの文芸書のほか児童書も出し、佐々木邦「トム・ソーヤー物語」(一九)を第一編とする「世界少年文学名作集」全二五巻を筆頭に、白鳥省吾「雲雀の巣」、秋田雨雀「太陽と花園」、小川未明「港についた黒ん坊」、吉田弦二郎「草笛を吹けば」など、児童文学史上に残る諸作を世に送った。四五年以前に廃業したと思われる。

『日本児童文学大事典』『日本近代文学大事典』と異なり、かなり多くの出版社や出版者を立項し、また言及もしているが、正確で詳細なものとは言い難い。それは児童書出版社自体の立ち位置の問題もあって無理からぬことではあるけれど、出版物を収集し、確認することも困難な研究状況を示しているのだろう。他の例を引くまでもなく、精華書院の立項にもそれは表われている。

精華書院は林虎之助によって創業され、大村謙太郎が引き継いだと記されているが、この二人に関する言及はなく、まったく不明といっていい。確かに『太陽と花園』の奥付住所は牛込区津久戸町で、発行者は大村謙太郎となっていることからすれば、それ以前が林虎之助だったのであろう。しかし林はともかく、問題となるのは大村の存在で、巻末広告には大村の前記の『池の底』の他に、もう一編の「創作童話」として『王様の顔』、さらに『ガラスの家』(「世界少年文学名作集」第二五巻)が「大村謙太郎先生の新著」として掲載されている。そのキャッチコピーは「葡萄棚の下に立つて口づから甘い汁を吸はせるやうにといふのが大村先生の子供のために考へて居らるゝ言葉」だとある。『ガラスの家』の作者は不明だが、『貴き血』はウイルデンブルクで、近代ドイツ愛国文学者の代表的作品とされていることから考えれば、大村はドイツ文学関係者と推測できる。

だがこのような大村でさえも、『日本児童文学大事典』のみならず、その他の各種文学辞典にもその名前を見出すことができない。これもひとえに大村の出版活動や著作と翻訳が、児童文学に限定されていたことに起因しているのかもしれない。

精華書院の立項に「吉江孤雁らの文芸書」ともあるので、白水社の『吉江喬松全集』を繰ってみると、第三巻所収の『仏蘭西文芸印象記』が大正十年に精華書院から刊行されているとわかった。これは大正五年から九年にかけてのフランス滞在記を『早稲田文学』などに寄せたもので、帰朝とともに一本にまとめ、上梓したものだという。

大正十年といえば、『太陽と花園』の出版と同年であり、発行者も同じ大村ということになる。この事実に加えて、『世界童話名作集』の訳者が楠山正雄、矢口達、中島孤島、保高徳蔵など、さらに『世界少年文学名作集』の訳者も彼らだけでなく、田中純秋田雨雀前田晁の名前も見えるので、精華書院も早稲田人脈に多くをよっており、おそらく大村もその一人であったと考えられる。

この精華書院を皮切りにして、これから児童書出版社のことも取り上げていくつもりでいる。ただ戦前の児童書出版社は赤本業界や特価本業界の近傍にいて、流通や販売が定かに見えていない。それでいて予約出版システムを採用しているからでもある。そしてまたそれらは古本で入手することも困難であるが、少しずつ言及することで、そのアウトラインを浮かび上がらせてみたいと思う。

なおその後の調べによれば、大村謙太郎は、陸軍省御用掛や学習院教授などを経てドイツ協会中学校校長となったドイツ語学者大村仁太郎の息子であり、精華書院の設立も、父の仁太郎と関係していると思われる。

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