なぜ『バラが咲いた』がブルーコミックスに挙げられているかというと、英訳タイトルとしてBlue Rose Bloomed とあるように、このバラは他ならぬ青いバラを意味しているからだ。しかもこれは五つの作品から編まれているのだが、もう一編「青色的少年」(Le Garçon Blue)も収録され、半ば青に染められているといっていい。
小学校六年の文集に、次のような一文をしたためた塚本普次という生徒がいた。
僕には生まれつき右脳に得体の知れない塊があり、いたって健康なのですがどうも感覚性が足りないようです。(右脳は感情や想像力などを育みます)
たとえば「花」を見ても一般的には「キレイ」「ウレシイ」など特別な感情が生まれるらしいのですが、僕には「花」はただの「花」でしかなくて、そこに在るだけなのです。(後略)
塚本=「僕」は感受性が乏しいおかげで、世間の愚か者と異なり、その場の感情や感覚に翻弄され、判断を誤まるようなことはなかった。ところが一度だけ転校生の戸川さんを見て、彼女が美しいと思い、身体中がしびれ、感情が波立ち、あふれんばかりになった。「僕」は彼女が他の愚か者とちがうと思ったが、それは大間違いで、自分と最も正反対な人間だとわかった。なぜならば、家に妖精が住んでいて消しゴムをもっていってしまったとか、うちの猫はしゃべれるので、今朝もオハヨウといったとか、夕焼けを見て空が燃えているので、外に出たらコゲて死ぬわよと本気で話しているからだ。
だが一方で、彼女は文集を読んで、あんたはカッコイイからファンになったと語りながら、何ひとつキレイに感じたことのないのはさみしいわねというのだった。「僕」は後悔と屈辱感、不安と羞恥心に襲われた。しかし彼女は次の日に急に転校してしまったのである。
ひとり暮らしで、高校三年になった「僕」の前にいきなり彼女が現れた。あなたは「生き別れの恋人」で、「あたしを必要としてる」と彼女にいわれ、またしても身体中がしびれ、彼女を部屋に入れてしまった。彼女は相変わらずの「戯言(たわごと)」をいいながらも、二冊の本を持っていた。それらは「僕」の文章が載っている『東小学校六学年文集』とボリス・ヴィアンの『日々の泡』(曽根元吉訳、新潮社)で、前者はいつも読んであなたのことを考えていた、いちばん大事なもの、後者は主人公の恋人が胸の中に睡蓮が咲いてしまう病気で死んでしまうというロマンチックな本で、「僕」にぜひ読んでほしい物語だった。そんな話をして、彼女は眠ってしまった。「なんだか僕は世界を手にいれた気分でした」。
翌日「僕」が帰ると、部屋のすべてがペンキで青く塗られ、床にはバラがまかれていた。彼女はいう。「こうしてると海の底にいるみたいね。(中略)ほんとは青いのがほしかったんだけど、まだ世の中に青いバラってないんだって。だからあんたつくってよ。ほしいなぁ青いバラ」。それを聞き、「僕」は植物学者になって「もし青いバラをつくってみせたら、戯言を呟いているときのように、微笑んでくれるでしょうか」と思った。
しかし彼女の仕事が言っていた占い師ではなく、売春婦だとわかり、「僕」は彼女のために、「どう見ても清楚で常識的で売春婦とは無縁な印象を受ける服」を買った。そして「生れてはじめて夢を見ました」。ところが「僕」の場合は想像力がないので、夢と現実がまったく変わらなかった。それゆえにロマンチックなはずの『日々の泡』も「ありえないことばかりのデタラメ夢物語」=彼女の世界そのものでしかなかった。「僕」は秀才としての成績も下がり、名門私立高校も自主退学するはめになり、ついに彼女に「おまえなんか必要じゃないんだ」といってしまった。すると彼女は消えてしまった。「僕」は彼女の言葉を思い出した。
「人間ってね、だれからも 必要とされなくなると 消えてなくなっちゃうんだって」
彼女が消えてしまうと、「僕」の五感や細胞のすべてが彼女に依存していたので機能しなくなり、数日後に動けなくなってしまった。そして涙だけがあふれ出て、身体中が湿り、コケが生え、シダやつるさえも伸びてきた。
そして花が咲きました。どうやら僕の右脳の塊はこの花の種だったようです。僕の感受性をつめこんだ種だったのです。
君が見たがっていた青いバラです(といっても僕の目はもう見えないのですが、そう感じられるのです)
ああ、意識がとぎれてゆく。それがこんなにも気持ちがいいなんて知らなかった。それにしてもこのバラを君に見てほしいよ。(後略)
ここに至って「僕」のほうが彼女よりもよほどロマンチストだという述懐もあり、作者のジョージ朝倉が冒頭のページに書きつけていた「思い出すのは君のことだけ/バカでウソつきでキレイな僕の恋人」というエピグラフめいた言葉がようやく結実する。そして「僕」の思いに応えるかのように、すなわち「あたしを必要としてる」声に応じるかのように、彼女が姿を現し、部屋のドアを開ける。すると部屋は青いバラで埋まっていて、その中に彼女は身を横たえ、「ああ、なんて心地いいの。愛は、スベテの法則をとびこえるわ」と呟くのだ。
彼女は海の底に青いバラとともに横たわるオフィーリアのようでもあり、「僕」=バラとともに消えてしまったことを暗示するかのように、次のラストページにおいて。「甘くていいにほい」が残っているだけで、「あとかたもない」部屋の風景だけが描かれ、「バラが咲いた」は終わっている。
この「バラが咲いた」は「僕」の右脳の種から青いバラが咲くというエピソードに象徴されているように、ジョージ朝倉による彼女なりの『日々の泡』の変奏、立場を代えたコランとクロエの物語だと考えてかまわないだろう。しかしそれに加えて、私はこのバラのエピソードの中に、同時代に書かれたサン=テクジュペリの『星の王子さま』の影響をも感じてしまう。『星の王子さま』に描かれたバラのエピソードも、紛れもなく男と女の関係のメタファーに他ならないからでもある。
また『日々の泡』のコミック化は、岡崎京子によって試みられていたことを記しておかなければならない。こちらは訳者とタイトルが異なり、早川書房版、伊東守男訳をベースにした『うたかたの日々』で、宝島社の単行本化は〇三年だったが、月刊『CUTiE』に連載されたのは、九四年から九五年にかけてであった。ジョージ朝倉と岡崎京子の両作品を読み比べることも面白いかと思い、岡崎のことも付け加えてみた。