出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

混住社会論3 桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)

OUT 上 OUT 下


「弁当工場」で深夜働く4人の主婦たちの名前とプロフィルを、まず提出しておこう。

 *雅子/43歳。会社をリストラされ、再就職先が見つからず、多額の住宅ローンもあり、弁当工場の夜勤パートを選ぶ。後にその会社が信用金庫だとわかる。夫は会社で合わない営業マンの鬱屈を抱え、息子は入ったばかりの高校から退学処分を受け、3人の家族はそれぞれの部屋で重荷を負い、孤独な生活を送る。その小さな家は畑の多い住宅街にある。いつもジーンズに洗いざらしの息子のTシャツやポロシャツを着て、古いカローラに乗っているが、頼れるタイプとの設定。桐野的ハードボイルド・ヒロインの体現。
 *ヨシエ/50歳半ば過ぎの寡婦。手先が器用で人一倍仕事が早く、工場の仲間から揶揄もこめて「師匠」と呼ばれている。古い木造アパートに寝たきりの姑と中学生の娘と住んでいる。夫の死亡保険金や貯金も姑のために遣ってしまい、ぎりぎりの生活に追いやられ、辛い夜勤の仕事を辞めることもできずにいる。
 *弥生/34歳。夜勤者の中で最も美人で可愛い女だが、5歳と3歳の子供がいる。夫がギャンブルに狂い、貯金を使い果たし、3ヵ月前から給料も家に入れず、暴力もふるわれ、彼女のパート収入で親子3人がかろうじて食べている。その家は弁当工場のすぐそばで、建売住宅の借家である。ヨシエと同じく自転車で工場に通う。
 *邦子/29歳と自称しているが、実際には「ブスでデブ」の33歳。外車に乗り、持ち物はブランド品が多く、服装にも金をかけていて、クレジットローンに追いかけられる暮らしを送っている。内縁の夫と古い団地に住んでいたが、夫に逃げられ、サラ金から追いこみをかけられている。

補足すれば、雅子以外は地方出身者であり、また彼女も含め、さしたる学歴も縁故も有しておらず、孤独な環境は共通している。もうひとつ共通項を挙げれば、全員が高度成長期を通過してきたことだろう。

この4人が仲間としてチームを組み、弁当を作るのだ。それは助け合う仲間がいなければ、このきつい仕事はやっていけないからだ。衛生監視員による粘着テープローラーでの背中の埃や塵の除去、手と指のチェック、作業衣への着替え、頭に被るネットと帽子、手と腕の消毒、ビニールの使い捨て手袋と消毒済み手拭き用布巾の用意を経て、コンベアが動かされ、ノルマにうるさい工場主任の管理下に「カレー弁当」千二百食が作られていく。それは次のように描かれる。

 四角いご飯を平らに均す者、カレーをかける者、鶏の唐揚げを切る者、それをカレーの上に載せる者、福神漬けの分量を量ってカップに入れる者、プラスチックの蓋をする者、スプーンで留める者、シールを貼る者、細かい作業がコンベアの下流に沿って連なり、ようやく一個のカレー弁当ができ上がる。

四十代、五十代の多いパート主婦たちの顔色はどす黒く疲れて映り、ぎすぎすした工場は夏でもきつい冷気と様々な食材の匂いにつきまとわれていた。トイレにいくにも交代で、二時間近く待つこともあり、朝までコンクリートの上で立ち仕事が続くのだ。「だから、ひたすら自分を労(いたわ)り、仲間同士で助け合い、なるべく楽な動きをしなければならない。それが体を毀(こわ)さずにこの仕事を長く続ける秘訣だった」。「カレー弁当」が終わると、次には詰める物が多いので、ラインが長くなる「特製幕の内弁当」二千食が続くのだ。人間の生活や身体を保つ食が生み出されていく場ではなく、機械的に無機質な物が生産されていく過程に立ち合っているかのようだ。

彼女たちは様々な事情とトラウマを抱え、「不夜城」のような工場でロボットのように働いている。それだけでなく、仕事から離れても、彼女たちはロードサイドビジネスに包囲され、生活していることが物語の中に埋めこまれ、郊外消費社会の住人の生活が浮かび上がってくる。

邦子は午後になって起きると、団地の入り口のところにあるコンビニで、「特製幕の内弁当」を買う。それは会社、工場、出荷の時間表示からして、自分たちのラインが手がけたものに相違なく、彼女はその弁当をテレビを見ながら機械的に、しかも「洗う余地のないほど綺麗に食べ終わった」。それから邦子は東大和のパブの面接に出かけ、断わられ、腹をたてたけれど、車代をもらったので、牛丼屋に入る。これが夕食代わりであろう。

ヨシエの高校生の娘は駅前のファーストフードで夏休みのバイトを決めていた。時給は弁当工場の昼間よりも高く、「若いということはそれだけで価値がある」のだ。朝食もコンビニで売っている、その代わりの食物だというアルミカップの飲み物ですませている。

雅子の息子もダイニングテーブルでコンビニ弁当を食べている。それも邦子の幕の内弁当と同じ表示があった。ただちがうのは出荷時間で、それは昼間のものだった。「夕食が支度されていることが家の存在証明だ」と雅子は考えていたが、それももはや成立しなくなる時期が近づいているのだろう。

コンビニやマクドといったファーストフードの他にも、ファミレスも頻繁に登場し、ロイヤルホストなどの具体的な名前も挙げられ、『OUT』の舞台である武蔵村山市周辺がロードサイドビジネス王国だとわかる。

前編で資料として挙げておいた2002‐3年版『首都圏ロードサイド郊外店便利ガイド』昭文社)の武蔵村山市東大和市小平市、及びそれらを貫いている新青梅街道を参照しながら、この『OUT』論を書いているのだが、新青梅街道のみならず、そこに掲載された他の主要幹線道路もまたロードサイドビジネスで埋め尽くされている。それらを見ていると、雅子や邦子がこの中を車で走っているシーンが目に浮かんでくるようで、そこに出てくるファミレス、ファーストフード、団地、公園、工場、様々な施設なども実際に類推できるし、この中から『OUT』の物語が立ち上がってきたのだと実感させられる。

これらが郊外消費社会を支えるコンビニの「弁当工場」で、夜勤パートとして働き、それぞれが特有の孤独を抱え、ロードサイドビジネスに埋め尽くされた地域に生きることを宿命づけられた女たちの肖像である。そしてそこには同じように孤独な日系ブラジル人カズオもいて、雅子は彼のミューズのような存在なのだ。混住社会としてのコンビニの「弁当工場」は、パート主婦と日系ブラジル人たちによって支えられている。その両者の孤独が郊外消費社会にも反映され、コンビニの弁当には近代の家庭の死のイメージがこめられているといったら、考え過ぎであろうか。

しかし彼女たちは「良妻賢母の典型」である弥生が夫を殺したことによって、急激に変わり始める。さらに「OUT」へと追いやられるといっていいかもしれない。雅子は弥生の「あたし、あの人、殺しちゃったの」という電話を受ける。それを雅子は「紛れもなく凶兆」だと思ったが、弥生を助けるしかないという決意に至る。その理由は「弁当工場」の「助け合う仲間」であると同時に、家庭の崩壊と孤独を共有しているからだ。そして雅子は死体の始末を考え、バラバラにし、生ゴミとして捨てようとする。だがそれは弁当のラインと同様に、「仲間がいなければ、このきつい仕事はやっていけない」。かくしてヨシエが仲間に加わり、それから邦子も続くことになる。そこに桐野は絶妙な次のような一節を挿入している。それは「夜勤の仲間は夜に会う。だから昼間の仕事はどこか胡散臭かった」というものだ。

死体の解体は雅子の家の風呂場で実行される。そのために彼女は工場からビニールエプロンとビニール手袋をくすねてきていた。弁当が無機質な物として扱われるように、死体も同じ物としてラインに置かれ、解体されるのだ。多額のローンによって購入された郊外のマイホームが殺人死体の解体の場となるのだ。郊外消費社会の家庭のいたるところに死が埋まっている。それは信じていいことなんだと『OUT』の物語は告げているかのようだ。

そしてこの弁当のラインの延長である死体処理をきっかけにして、やはり雅子をミューズのようにして、孤独なサディストやロリコン男が引き寄せられ、死体処理ビジネスへと展開されていく。つまり「OUT」はとめどなく拡がり、死の影は彼女たちにも忍び寄っていくことになる。

『OUT』は「クライム・ノベル」と銘打たれているが、むしろ郊外消費社会が生み出した女性たちを主人公とする、プロレタリア主婦小説のようにも読むことができよう。『OUT』は英訳されているが、言及してきた郊外消費社会の孤独の襞と細部はどのように訳されているのか、一度確かめてみたいと思う。

OUT OUT『OUT』英語版

次回へ続く。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1