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古本夜話265 鐡塔書院と兼常清佐『音楽に志す人へ』

八木敏夫は内外書籍株式会社と書物展望社の在庫処理を引受けた後で、続けて小林勇の鐡塔書院の出版物も手がけている。

鐡塔書院は岩波書店を退職した小林が昭和三年に興した出版社で、幸田露伴の命名、ブレインの三木清による資金提供、岩波書店の著者たちの支援を受けて始められていた。だがいくつもの証言が残されているように、経営的には非常に困難な状態の中にあり、九年に廃業せざるを得ず、小林は岩波書店に戻ることになった。

そのような岩波書店と異なる出版社経営の失敗という事情もあって、後に小林は、岩波茂雄伝『惜櫟荘主人』、幸田露伴追悼記『蝸牛庵訪問記』などのよく知られた回想録、及び筑摩書房の『小林勇文集』全十一巻にまとめられるほどの膨大な文章を残したにもかかわらず、まとまった鐡塔書院史を書くこともなく、その出版資料を編むこともなかったので、その詳細な実態は明らかではない。それゆえに鐡塔書院は百数十点の書物、『鐡塔』という雑誌、系列の新興科学社の出版物も含めて、その全貌もまた定かではない。これ以上のことはすでに「鐡塔書院」(『彷書月刊』〇二年三月号所収)を書いているので、そちらを参照されたい。
惜櫟荘主人

つまりそうした鐡塔書院の廃業状況を受けて、八木はその在庫処理に当たったことになるのだが、こちらも具体的に語られているわけではないので、詳細は不明である。しかしそれでも『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』の「特価本資料」の昭和十二年のところに、鐡塔書院のものが七点九冊挙がっていることから判断すると、八木が在庫を引受けたのはその前年の十一年頃であり、これらの本はとりわけ在庫数が多かったのではないかと推測できる。それもそのはずで、三巻に及ぶ『標準フランス語講座』まで出していたのである。またそのリストには兼常清佐の『音楽に志す人へ』も挙がっていて、しかもこれは最近入手したばかりの一冊だった。

本連載201で、文藝春秋社の「音楽講座」第一篇の兼常の『音楽概論』(昭和七年)を紹介しておいた。音楽、及び音楽書のイメージは、菊池寛と文藝春秋社もそうだが、小林と鐡塔書院も同じようにうまく結びつかない。しかし『音楽に志す人へ』の巻末を見ると、大正十四年から昭和四年にかけて岩波書店が刊行した「兼常清佐著書」として『音楽巡礼』『ベートーヴェンの死』『平民楽人シューベルト』『音楽概論』の四冊が一ページに掲載されている。

そして次ページには『西洋音楽史』と『日本音楽史』の近刊予告が出され、兼常自身が「敬白」として、「音楽史―さてどんなものが書けませうか」と始まり、「出来たらどうぞ沢山買つてやつて下さい、少し早すぎますが、鐡塔書院主人に頼まれたので、この予告も書いておきます」に終わる宣伝文を書いている。それによれば、岩波書店の『音楽概論』の編集担当者が小林だったことから、「音楽史」を頼まれたのだという。だが「特価本資料」に載っていないことから考えれば、この二冊の「音楽史」は出されなかったのではないだろうか。彼の著作目録を調べてみると、昭和六年に『音楽の階級性』なる一冊は刊行されているが、「音楽史」のほうは出ていない。

同時代の音楽書といえば、ただちに第一書房によった大田黒元雄の多くの著作が思い浮かぶが、兼常も岩波書店から立て続けに著書を刊行していることは、彼が音楽書の注目すべき書き手と見なされていたからであろう。彼は『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを引いてみる。
日本近代文学大事典

 兼常清佐 かねつねきよすけ 明治一八・一一・二二〜昭和三二・四・二五(1885〜1957)音楽評論家、音声学者。萩市の生れ。明治四二年京大哲学科卒。大正三年上京、旧師松本亦太郎の東大実験心理学研究室で、音楽美学、音響真理学など研究。このころより民謡の蒐集と研究に着手。一一年より一三年まで、ドイツ留学。昭和二年ごろより日本音楽集成を企て、録音や採譜、かねてからの民謡の蒐集をも進める。七年、音および音楽に関する研究所が下落合に実現。以後、この研究所は戦時、戦後の困難に堪え、転々とする。(中略)日本語、日本音楽の時代にさきがけた研究者として、足跡をのこす。(後略)

しかし兼常に関してのこのような認識は戦後の昭和五十年代になってようやく見直されたものではないだろうか。今でこそ兼常は『音楽と生活』が岩波文庫にも収録されているけれど、創樹社の『音楽巡礼』一冊しかない時期もかなり長かったと考えられる。
音楽と生活全集音楽巡礼

小林は昭和四十一年に書かれた彼の追想「兼常清佐」(『彼岸花』所収、文藝春秋)を、「兼常清佐という名を聞いても、その人が何をした人か、今では知らない人が多いであろう。私自身も兼常が『何をした人』か正確に語ることはむずかしいようだ」と書き出している。小林は一筆書きの淡いタッチで、死後九年たった今も「なつかしい人」である兼常をみごとに描いている。それによって『事典』の立項に見えないところを補足すれば、大学でギリシャ哲学と日本の古典音楽を学び、上京して東京音楽学校に入学し、ピアノを勉強した。ドイツ留学は大原孫三郎の後援を得ていた。兼常は当時の音楽家や音楽評論家などより一歩も二歩も進んでいて、日本で誰も問題にしていなかったジャズを新しい音楽だと讃美し、日本の流行歌に関しても、これからはマイクの使い方の巧拙で歌手の運命が決まるという意味のことをいったという。

兼常は家で冬はドテラ、夏はユカタで過ごし、奇行が伝えられ、いつも冗談をいってふざけているように見られていたと小林は書きながら、それでいて「孤独な人だったと思う」と続けている。

このようにして小林はいつも著者や身近な人々を回想して、それぞれのさみしさにふれてしまう。それは小林のエッセイの底に流れているものであり、『人は寂しき』といったタイトルに象徴的に表われている。その眼差しは、鐡塔書院の失敗も含めた出版という行為の底に潜んでいる孤独とさみしさに起因しているように思われてならない。

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