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混住社会論5 大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)

死者の奢り・飼育 新潮文庫版)


私は『〈郊外〉の誕生と死』において、当初の構想では第4章「郊外文学の発生」を、大江健三郎『飼育』から始めるつもりでいたのだが、彼の作品は次回言及する『万延元年のフットボール』も含め、スパンの長い郊外や消費社会の前史に位置づけられるので、この章が長くなってしまうこともあり、見送らざるをえなかった。

〈郊外〉の誕生と死 万延元年のフットボール

それに加えて、大江の作品と文体には他の作家たちと異なる特有の呪縛力が秘められていること、とりわけ『飼育』にはかつて原文でも読んだピエール・ガスカールの『種子』(青柳瑞穂訳、講談社、一九五七年)の明らかな影響が見てとれ、そちらも論じていくとテーマがずれてしまうことも危惧されたからだ。またあらためて私たちの戦後世代に対して、大江文学がもたらした比類なき波紋と影響も思い出されたし、中上健次村上龍はもちろんだが、それは前回取り上げた山田詠美に至るまで続き、彼女も大江文学の強度な引力圏を経てデビューしたことは明白で、『ベッドタイムアイズ』にしても、大江の『飼育』を抜きにして成立しないようにも思える。それゆえに江藤淳『ベッドタイムアイズ』を称揚したのではないだろうか。
ベッドタイムアイズ  
『飼育』は戦時下における思いがけない混住を描いた、大江文学のコアにして根底に横たわる作品とよんでもいい。ここでの混住は黒人兵という他者を得ることで成立し、ひとつの神話のような光景をエピファニーさせている。まず谷間の小さな村が霧の中から浮かび上がってくるように姿を現わす。季節は洪水のように降り続いた梅雨の後だ。

 (前略)僕らの村から《町》への近道の釣橋を山崩れが押しつぶすと、僕らの小学校の分教場は閉鎖され、郵便物は停滞し、そして僕らの村の大人たちは、やむをえない時、山の尾根づたいに細く地盤のゆるい道を歩いて《町》へたどりつくのだった。(中略)

  しかし《町》からすっかり隔絶されてしまうことは僕らの村、古いが未成育な開拓村にとって切実な悩みを引きおこしはしなかった。僕ら、村の人間たちは《町》で汚い動物のように嫌われていたのだし、僕らにとって狭い谷間を見下す斜面にかたまっている小さな集落にあらゆる日常がすっぽりつまっていたのだ。しかも夏の始めだった。子供たちにとって分教場は閉じられている方がいい。

これが「僕らの村」なのだ。そしてこの時代に「村」と「町」はまったく別の世界、異なるトポスであり、「道」や「橋」によって、かろうじてつながっているものだった。そのような「村」と「町」のトポロジーと棲み分けは、一九五〇年代までは日本のどこでも見られた風景に他ならなかった。それゆえに、ガスカールの『種子』の主人公の少年の言葉を借りれば、「町を発見すること」にもなったが、それでいて「村」という「小さな集落にあらゆる日常がすっぽりつまっていた」。
(竹内書店版)
大江はその「村」に生きる「僕ら」を、ガスカールの『種子』をそのまま投影させ、「僕も弟も、硬い表皮と厚い果肉にしっかり包みこまれた小さな種子、柔かく水みずしく、外光にあたるだけでひりひり慄えながら剥がれてしまう青い種子なのだった」と形容している。戦争のために若者たちが不在な「村」に、時々郵便配達夫が彼らの戦死の通知を届けにきた。そうした「村」の上空に「珍しい鳥」のように敵の飛行機が通過し始めていた。父は狩猟で得た獲物を「町」の役場へ渡すことで生計を支え、「僕ら」は「村」の中央にある共同倉庫の二階の養蚕部屋に住んでいた。

ある日の夜明けに激しい地鳴りとすさまじい衝撃音が起きた。敵の飛行機が山に落ちたのだ。大人たちは敵兵を探すために、猟銃を手にして山狩りに向かった。女たちは暗い家の奥に身を潜め、「村」には大人たちがすっかりいなくなり、「子供たちだけが陽の光の氾濫に溺れている。僕は不安に胸をしめつけられた」。弟は「夢みるように」いう。「敵兵はどんな顔だろうなあ」「死んでなかったらいいがなあ」「掴まえて来てくれるといいがないあ」と。

子供たちにとって「敵兵」は閉ざされた「村」における「期待」の出来事、事件を象徴するものとして捉えられる。いうなれば、まれびとがやってくるような「期待」なのだ。「僕は期待で気が狂いそうだった」。あたかも神の降臨を待ち望んでいるかのようだ。それは新聞やラジオも普及していなかった「村」にとっては大人たちも同様であり、そのような「村」の感覚とは、テレビが普及する以前の五〇年代までは続いていたものだったと思われる。

それから不安な期待に音を潜めている「村」に最初の宵闇が訪れ、そこに大人たちに囲まれ、両足首に猪罠の鉄ぐさりをはめこまれた「黒い大男」=「獲物」=「敵」が現われてきた。そして「村」の倉庫での黒人兵と子供たちとの「混住」=「飼育」が始まるのである。

黒人兵は「町」の意向が判明するまで、「村」で「獣のように飼う」ことが決められる。ここで留意しなければならないのは、先験的に「村」が「町」から疎外、もしくは隔絶された地域として存在していることだろう。「村の人間たちは《町》で汚い動物のように嫌われていた」という一文は、そのことを告げている。「獣同然」で、「牛の臭いがする」黒人兵は「汚い動物」のような「村の人間たち」のまさに隣人的存在であり、それゆえに「村」で子供たちと一緒に住み、「飼育」されるのだ。

「町」の人間から「蛙」と呼ばれる「僕」は地下倉の黒人兵を常に監視し、食物を与え、観察する。柱に太い鎖でつながれた、うずくまっていた黒人兵は食物を貪婪にむさぼり食う。そうしているうちに、黒人兵の処置は「町」ではなく、県庁に委ねられ、それが決定するまで、「村」で彼を保管しておかなければならないということになった。そのために監視、世話、観察を通じ、「僕ら子供らは黒人兵にかかりきりになり、生活のあらゆる隅ずみを黒人兵でみたしていた」。そして「家畜のようにおとなしい」黒人兵と子供たちは、身ぶりや夏の暑さも共有し、「《人間的》なきずなで結びついた」と思われた。

次第に黒人兵は地下倉から自由な外出も許可されるようになり、女たちからも食物を与えられ、「村の生活の一つの成分になろうとしていた」し、狩猟にまつわる技術を核にして、「僕と弟と黒人兵と父とは一つの家族のように結びついた」。夏の盛りに黒人兵の濃密な体臭が地下倉にこもるようになり、子供たちは彼を「村」の泉に連れていった。そして一緒に裸になり、水浴びし、黒人兵の「美しいセクス」に水をぶっかけたり、山羊と淫らに戯れもした。黒人兵は「たぐいまれなすばらしい家畜」だった。

 僕らがいかに黒人兵を愛していたか、あの遠く輝かしい夏の午後の水に濡れて重い皮膚の上にきらめく陽、敷石の濃い影、子供たちや黒人兵の匂い、喜びに嗄れた声、それらすべての充満と律動を、僕はどう伝えればいい?

そうした夏の祝祭はいつまでも終わることなく続いていくように感じられた。
だがしかしその翌日、村における黒人兵との「一つの家族のように結び着いた」関係に、突然終止符が打たれる。黒人兵を県に引き渡すことが伝えられ、「村」の人間たちが彼を「町」まで降ろさなければならなくなったのだ。子供たちは打ちのめされた。「黒人兵を引渡す、そのあと、村に何が残るだろう、夏が空虚な脱けがらになってしまう」。といって「僕にどうすることができよう」。
その時、黒人兵は急に立ち上がり、「僕」をつかまえ、地下倉に駆けおり、揚蓋を降ろした。「僕は痛みに呻いて黒人兵の腕の中でもがきながら、すべてを残酷に理解したのだった。僕は捕虜だった。そしておとりだった。黒人兵は《敵》に変身し、僕の味方は揚蓋の向うで騒いでいた」。そのうちに地下倉は夜の長い闇に包まれていったが、翌朝になって、大人たちが地下倉になだれこみ、父が「僕」を「捕虜」とする黒人兵に鉈を振り降ろし、「僕は自分の左掌と、黒人兵の頭蓋の打ち砕かれる音を聞いた」。黒人兵の死体は谷間の廃坑へと運ばれていった。「村」には黒人兵の死体の匂いが充満しているようだった。「鉈をふるって僕に襲いかかった大人たち、それは奇怪で、僕の理解を拒み、嘔気を感じさせ」たし、「僕はもう子供ではない、という考えが啓示のように僕をみたした」。

それは「敵」にして「まれびと」である黒人兵との「混住」=「飼育」を通じてもたらされた、子供たちの村における祝祭の日々の背景に、あらためて戦争が続いていたことを露出させている。黒人兵の死に続く「町」の書記の死もそれを象徴している。戦争は終わりに近づいているにしても、このようにして、戦場ではない「村」にも「町」にも、残された大人や子供たちにも戦争を露出させ、死の匂いと痕跡を揺曳させているのだ。それは「僕」が「子供」ではなくなるビルドゥングスの過程でもあった。そうした記憶をたどりながら、『飼育』は書かれたように思える。クロージングに近い一節を引用し、それを示すことで、この一文を終えよう。

 戦争、血まみれの大規模な長い闘い、それが続いているはずだった。遠い国で、羊の群や刈りこまれた芝生を押し流す洪水のように、それは決して僕らの村には届いてこない筈の戦争。ところが、それが僕の指と掌をぐしゃぐしゃに叩きつぶしに来る。父が鉈をふるって戦争の血に身体を酔わせながら。そして急に村は戦争におおいつくされ、その雑沓の中で、僕は息もつけない。

次回へ続く。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1