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古本夜話274 中川玉成堂『元和勇士 山中武勇伝』、立川文庫、池田蘭子『女紋』

立川文庫については ほるぷ出版の復刻本を一冊持っているだけで、深い読書体験もないし、足立巻一『立川文庫の英雄たち』(中公文庫)という優れた研究も出されているし、言及しないつもりでいた。だが立川文庫の原型と見なせる講談本を入手したこと、しかもそれが立川文庫の大半を書いたとされる玉田玉秀斎のもので、彼は立川文庫の作者を描いた池田蘭子の『女紋』河出書房新社)の主人公にもなっていることもあり、ふれないわけにはいかないだろう。

立川文庫の英雄たち 女紋

まずその本を示す。玉田玉秀斎講演、山田唯夫速記、『元和勇士 山中武勇伝』で、菊判和本仕立て、二百余ページに及び、大正四年十版発行とある。さらに奥付の記載を示せば、講演者は京山恭高、発行者は中川清次郎、発売所は東区備後町心斎橋筋の中川玉成堂となっている。そして何より目を引くのは「大売捌所」、つまり取次を兼ねた直売書店として、駸々堂から立川文明堂に至る十五店の名前が連なっていることだ。講演者名が表紙の玉田と異なり、京山恭高と書かれているのは玉田原作、京山講演といった理由からだろうし、それはともかく十版発行や「大売捌所」の列挙から考えても、当時の大阪でよく売れた本であることを告げていよう。

一方で池田の『女紋』で展開された物語が存在している。山田敬は愛媛県今治の回船問屋の一人娘で、婿をとり、五人の子供がいたが、旅の講釈師玉田玉麟と出会い、大阪へ駆け落ちする。敬は玉麟を真打ちの玉秀斎にするために、速記者の小田都三郎を取りこみ、玉麟の講談本を出すことを計画し、それに成功する。しかし小田が離反しそうになったので、彼に今治に残してきた長女寧を嫁がせる。彼女は父を失い、夫と別れ、幼い伊知を抱えながら、四人の弟たちの面倒を見てきたのである。
その結果、玉秀斎講演、小田速記の講談本は様々な出版社から次々に売り出されていった。『女紋』の中には「大売捌所」として挙がっている取次兼書店がそれこそ次々と登場し、これらのほとんどが玉秀斎の講談本を出版しているとわかる。

「中川玉成堂などは、寧に夢中になった都三郎が、自ら売りこみにゆくほどだった」、もしくは「立川熊次郎も、今度唐物町に家を持ち立川文明堂と本屋の看板をかけたから、よろしくとあいさつに来た」などという記述も見えるからだ。

だが寧が小田のところから逃れたので、お敬は速記者を失ってしまう。そこで大阪に出てきていた長男で歯科医の阿鉄が、速記抜きで直接原稿にすると申し出る。それが弟名の山田唯夫速記として出版されるようになり、次第に阿鉄が「講談本製造工場」の中心になり、原作者になっていく。

 幼いころからなにごとにも幻想する心。翼のありたけを広げる夢。それら満たされないあこがれや、見残した夢が、勝手放題の講談の上に結ばれてゆくのだ。歯科医の山田鉄が本職なのか、講談本速記者名酔神が本職なのか見分けのつかないほど、新しい話を考えることにかかりきっていた。

そこに寧や弟たち、伊知、阿鉄の友人たちが加わり、講談本の物語の多様性が開花していく。それには玉秀斎の人柄も大いに作用した。もちろんそれらを束ねる出版プロデューサーはお敬だった。彼女は当時東京の三教書院から出ていた「袖珍文庫」から、講談本を文庫化することを思いつく。しかし彼女の提案は出版社に受け入れられず、やっとのことで立川文明堂が引受け、明治四十四年十月に「立川文庫」として玉田玉秀斎の作者名で、その第一編『一休禅師』が刊行され、一世を風靡することになるのである。そして伊知こそがほかならぬ池田蘭子であった。

足立巻一『立川文庫の英雄たち』の中で、玉田玉秀斎、山田酔神や山田唯夫速記の四十点ほどの講談本をリストアップしていて、その中には中川玉成堂の『元和勇士 山中武勇伝』も挙がっている。足立は酔神が加わることで、題名から見て演目が広がり、とりわけ『真田真村』シリーズに明らかなように、大多数が「立川文庫」へと流れこんでいったと指摘している。それは題名や演目だけでなく、創作の実態も同様であり、「立川文庫」へも受け継がれていった。

 玉秀斎が売れ出すと、酔神ひとりでは追っつかず、敬も寧も弟、顕・唯夫も仕事の余暇に筆記するようになる。そのうちには酔神が企画し、題材を出し、玉秀斎が読み、家族が筆記し、できあがると玉秀斎が目をとおす、という家族による集団創作となった。さらには、酔神らが勝手に書いたものを玉秀斎が監修して名義を与えるだけという形に進んだ。

いうなれば、「立川文庫」とは、玉秀斎と山田一族の苦しくも得難い「世外人」の生活から生まれたファミリーロマンスでもあったのだ。だからこそ猿飛佐助のようなキャラクターが生み出されていったのである。それを象徴するかのように、大正八年に玉秀斎がコレラで急死し、二年後に敬も亡くなると、家族を中心として執筆された「立川文庫」は失速していく。十三年に刊行の第百九十六編『新納小弥太』が最終巻とされているので、二人の死は物語を生み出すエネルギーを消失させたことになる。

だが何よりも留意すべき事実は、一大ベストセラー群にして、後世の大衆文学や物語の祖型を築いた立川文庫が、大阪の特価本業界を中心にして立ち上がり、書店以上に夜店やおもちゃ屋や駄菓子屋、あるいは縁日で売られ、全国へと流通していったことであろう。

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