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古本夜話273 立川文明堂『明治大正文学美術人名辞書』と大文館『増補古今日本書画名家辞典』

前回、松要書店、巧人社、近代文芸社が三位一体となった「造り本」を紹介したこともあり、私の所持している大阪の他社の本も取り上げておくことにしよう。

私は何度も書いているが、辞書や辞典類の編集や出版が困難なことを承知しているので、とりわけ戦前のものは目にふれる限り、できるだけ購入するように心掛けてきた。それらの中に、大阪の特価本業界の出版社の辞書や辞典が自ずと混じっている。そのうちの二冊を取り出し、お目にかけることにしよう。

一冊は松本龍之助編『明治大正文学美術人名辞書』である。箱には立川書店発兌となっているが、奥付には発売元立川文明堂との記載があり、あの立川文庫の版元の出版物だとわかる。発行人は立川熊次郎、住所は大阪市南区安堂寺橋通、大正十五年発行、昭和五年第九版で、定価は五円五十銭、千六百余名を立項し、千ページに及んでいる。

編者の松本龍之助は元奈良女子高等師範教諭だったようで、同書の編纂を「殊に一般人の知らうとしている近代現代人の伝記を蒐録した良書が無い」ゆえに企画したと述べている。確かに人名索引を見てみると、大正時代に出現した多くの文学者たちが収録され、類書に比べて圧倒的にそれらの人物が目立つ。

例えば、酒と奇行で文壇に知られ、放浪と窮乏のうちに死んだ坂本紅蓮洞の立項も見られる。だが経歴は間違っていないにしても、「現在慶応義塾大学文学部教授で東京帝国大学文学部講師をしている」などのとんでもない事実誤認の記述も含まれ、この辞書の玉石混淆ぶりを覗かせている。「はしがき」の日付からすれば、これは他社の紙型を利用した「造り本」ではなく、立川文明堂のオリジナル出版だと見なせるが、このような内容の不確実性ゆえに引き受ける版元がなく、めぐりめぐって立川文明堂から出版されることになったのではないだろうか。

立川文明堂が立川文庫を創刊する以前の明治末期までの出版物は、主として実用書と講談本であり、それらは足立巻一の『立川文庫の英雄たち』(中公文庫)に掲載されている。したがって立川文庫が大正時代に全盛を迎えていたにもかかわらず、辞書を含めた実用書などの出版も続けられていたのだろう。これらのことは足立も言及していないが、大阪出版史の事実として記憶にとどめておくべきであろう。

立川文庫の英雄たち
もう一冊は玉椿荘樂只著『増補古今日本書画名家辞典』で、こちらも千五百ページに及ぶ大著である。発行所は大文館書店、発行者は前田千代蔵、住所は大阪市西区薩摩堀東ノ町、昭和十三年印刷、十四年三版、定価五円五十銭と奥付に記載されている。立川文明堂の『明治大正文学美術人名辞書』の刊行と十年以上隔たっているにもかかわらず、定価がまったく同じであることはなぜかおかしい。おそらくこの種の辞書や辞典の相場がその値段であること、それに加えて仕入れ正味はかなり低いと考えられるので、値引きして売ったとしても、粗利益が高いところからつけられた定価ではないだろうか。

この大文館書店は前回挙げた「全国見切本数物商一覧」にリストアップされていた前田大文館であり、『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』に、戦後まで続いていた大文館への言及が見られる。

 前田大文館は故前田千代蔵氏の創業になる特価書籍卸店だが、大正二年の創立という老舗。戦前から東京の業界と密接な取引があり、堅実な経営には定評がありました。現主人前田昭二氏は二十八年より継承、手堅い経営方針をそのまま受け継ぎ、いっそうの発展途上をたどりつつあります。

この記述から、大文館が特価書籍卸店を兼ねた「造り本」の出版社であったことも推測がつく。『増補古今日本書画名家辞典』もそれらの一冊だったのであろう。大正から昭和初期にかけて、石塚松雲堂から増補がつかない同名の辞典が出されている。これは同編輯部編とあるが、玉椿荘樂只も松雲堂から他の著作を出していることからすれば、元版と確定できないが、それに近いとも考えられる。ただ著者の玉椿荘樂只も名前も、それこそ『明治大正文学美術人名辞書』も含め、いくつもの美術辞典類を繰ってみたが、まったく手がかりもつかめなかった。

古今日本書画名家辞典 (『古今日本書画名家辞典』)

それゆえに、これから『増補古今日本書画名家辞典』の内容を、少しばかり詳しく紹介しておくべきだろう。まずこの『辞典』の特色は巻頭に二十ページにわたる書家画家の署名と落款が掲載され、本文でも人物によっては同様の処置がとられていることであろう。「題言」は漢文で記され、「奚疑居士識」とある。また「年表の例算年数は大正三年より遡りて算出す」との一文から、「増補」がつく前の版の最初の刊行は、その後の大正四年頃ではないかと考えられる。

収録人物は画家と書家にわけられているが、増補分を加えれば、千数百人と推測される。「増補」の部分に著者の「序」が加えられ、次のような文が見える。

 本書肆嚮に『古今日本書画名家辞典』を上梓し江湖諸彦の需に応ぜしが、素より完全を期したるも書冊大部にして多少の欠漏を免れず、只管補遺に意ありて其期の到るを待ちし処、今回愈々大増補を決為し(後略)。

だが著者と同様に本書肆も目にしたことがない。おそらく著者も出版社も関西にある可能性が高いようにも思えるにしても、本連載227でふれた三星社から大正十四年に奥村眺洋の『日本古今書画人名辞典』が出されているので、これとも関係があるのかもしれない。いずれにしても『増補古今日本書画名家辞典』は大文館の「造り本」であることは確実だが、やはり様々な出版をめぐる事情があらわれているのだろう。「造り本」の世界も謎が深い。

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