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古本夜話328 同盟発行『義太夫百二十段集』、求光閣

最後にもう一編だけ、特価本業界拾遺として書いておきたい。それも岡村書店絡みだし、この機会を外すと、いつ言及できるのかわからないからでもある。

それは『義太夫百二十段集』で、明治三十五年に刊行され、B6判をさらに小さくした判型の並製で、四百四十頁ほどだが、ノンブル表記から、二冊の本を合本したものであることが明らかだ。内容は「朝顔日記」から「菅原伝授手習鑑」に至る六十九本の演目の、それぞれの見せ場の「段」を収録していて、講談や落語ほどではないにしても、明治時代において大衆芸能の一角を占めていたことをうかがわせる。表紙タイトルには「倭文範」が上に付せられている。

例えば、夏目漱石『三四郎』岩波文庫)の中で、学校の講義の間での雑談に関する言及が出てきて、次のように記されていた。
三四郎

 むしろ昇之助が何とかしたという方の話が面白かった。そこで廊下で熊本出の同級生を捕まえて、昇之助とは何だと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫だと教えてくれた。それから寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあるという事までいって聞かせた上、今度の土曜に一緒に行こうと誘ってくれた。よく知っていると思ったら、この男は昨夜初めて、寄席へ這入ったのだそうだ。三四郎は何だか寄席へ行って昇之助が見たくなった。

「注」を見ると、「特に昇之助は当時最も人気のあった娘義太夫の一人」とあり、『三四郎』の時代背景は日露戦争後の明治末期だから、この頃までは義太夫が盛んだったことを教えてくれる。実際に漱石正岡子規と知り合った明治二十年代前半、落語、講談、義太夫を聞くために連れ立って本郷や神田界隈の寄席を回っていたようだし、それが『三四郎』のこうした部分、もしくは与次郎と一緒に寄席にいき、小さんの落語を聞く場面に反映されているのだろう。

それらはひとまずおくにしても、この『義太夫百二十段集』を見ていると、講談や落語と同様、義太夫の出版に関しても、特価本業界が大きな役割を果たしていたと思わざるを得ない。これは合本であることを考えると、「造り本」に他ならず、奥付には「同盟」発行とあり、編輯者兼発行者として、井上勝五郎、岡村庄兵衛、池村鶴吉、服部喜太郎の名前が並び、この四人の「同盟」出版だとわかるし、元版の出版も彼らが関係していたことは間違いないだろう。

このような「同盟」出版は近世の出版システムの系譜を引き、明治前期の様々な出版に応用されていたが、特価本業界においては流通や販売の特殊性もあり、大正から昭和にかけても、全国出版物卸商業協同組合の前身である東京地本彫画営業組合や東京書籍商懇話会において行われていたようで、『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』にも記されている。

 当時の組合員の団結というか相互扶助の精神は大変なもので、版元数店が共同して出版する「相版」もよく行われました。ヴァイオリンやアコーディオンが流行したころに「手風琴独習」など菊判横綴じ六十四頁(定価二十銭)の本を盛んに出版した「共盟館」という版元があるが、所在地は浅草区南元町いろは書房三輪次郎となっているものの、池村鶴吉、文陽堂富田能次、世光館矢沢光吉、大川錠吉、盛花堂岡村庄兵衛、それに三輪氏の諸氏の共同出資によるものです。(中略)また共同仕入れもよく行われ、「五共会」(文林堂、大川屋、春祥堂、大洋堂、至誠堂)はその代表的なものといえます。

この「相版」メンバーの中に、『義太夫百二十段集』の奥付の編輯者兼発行者に名前を連ねた四人のうちの池村と岡村は見ることができるので、井上と服部もまた東京地本彫画組合に属していたか、もしくはその近傍にいたにちがいない。

なお、その後求光閣の『戦時弔祭慰問文教範』を入手した。これは大畑裕著で、服部喜太郎を発行者とし、明治三十七年出されている。同盟版と求光閣の住所は同一で、その巻末広告から、字典、文範、作文、演説本などを主としているとわかる。「相版」のために求む光閣ではなく、個人名が使われたのである。

なおその後、求光閣の『戦時弔祭慰問文教範』を入手した。これは大畑裕著で、服部喜太郎を発行者とし、明治三十七年出されている。同盟版と求光閣の住所は同一で、その巻末広告から、字典、文範、作文、演説本などを主としているとわかる。「相版」のために求光閣ではなく、個人名が使われたのである。

また夏目漱石『吾輩は猫である』は明治三十八年から四十年にかけて、大倉書店と服部書店の「相版」で出されている。この服部書店の発行者名は元大倉書店の番頭の服部国太郎だが、喜太郎と関係があるのだろうか。
吾輩は猫である』は明治三十八年から四十年にかけて、大倉書店と服部書店の「相版」で出されている。この服部書店の発行者名は元大倉書店の番頭の服部国太郎だが、喜太郎と関係があるのだろうか。

明治二十年に近代出版社の雄である博文館が創業し、その後取次兼書店である東京堂を発足させ、雑誌を中心とした出版社・取次・書店という近代出版流通システムを成長させていく。それらと軌を一にして近代文学も誕生し、そのルートによって全国へと伝播していく。

その一方で近世の出版システムによっていた東京地本彫画営業組合は草双紙、読本、浮世絵などから、まず大川屋が講談本を手がけ、綱島書店が子ども用絵本の分野に進出する。その種の出版は表紙は上質紙、数色刷の石版印刷だが、本文はザラ紙で、紙型の長期にわたる繰返し使用、単純な活版印刷、針金綴じ製本、正味も安かったのである。

義太夫百二十段集』はその典型的な一冊で、ほぼすべてが当てはまってしまう。しかも奥付に定価記載もないことは、融通がきく正味と販売システム、流通販売も書店ばかりでなく、露店商、荒物屋、駄菓子屋、また地方の縁日や高町まで及んでいた。

したがって確かに近代出版社としての博文館を中心とする洋本の出版社・取次・書店という近代出版流通システムは明治後半に成長し、それに多くの出版社が併走し、様々な近代出版物が生れていくわけだが、そのかたわらには近世出版流通システムに基づく東京地本彫画営業組合に属する出版社群が存在し、もうひとつのことなる出版物を送り出していたことを忘れるべきではない。

思いがけず特価本業界についての長い連載になってしまったが、最後に『三十年の歩み』を残された全版の編纂の方々、及び編集に携わった加藤哲に深甚の謝意を表す次第だ。

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