ここで現代の郊外消費社会において、注視すべき存在と化しているショッピングセンターに関する言及を二編ほど挿入しておきたい。
本連載53の角田光代『空中庭園』の中で、ショッピングセンターが郊外の人間にとっては精神的なよりどころ、救いのトポスであり、また「トウキョウ」や「ディズニーランド」にあたり、それゆえに物語の主要な舞台ともなっていた。また前回の嶽本野ばら『下妻物語』にあっても、スーパーのジャスコが『空中庭園』のショッピングセンターのような役割を占めていた。ジャスコは今世紀に入ってからイオンと名称を変え、ショッピングセンターやショッピングモールの開発へと突き進んでいくわけだから、『下妻物語』のジャスコもすでにモールの業態へと転換していたと考えていいし、それはジャスコをめぐる会話にも表出していた。
それならば、日本において郊外ショッピングセンターが出現したのはいつのことだったのだろうか。その嚆矢は一九六九年の二子玉川高島屋ショッピングセンターで、七〇年代前半に誕生するコンビニやファストフード、ファミレスなどのロードサイドビジネスよりも先行していたことになる。それはロードサイドビジネスが新興企業によってベンチャー的に立ち上げられていったことに対して、ショッピングセンター研究は、五〇年代のアメリカにおけるその出現と隆盛を受け、六〇年代の早くから進められていたからだ。その前史として、日本的ショッピングセンターである地下街型、駅ビル型、商店ビル型を経て、二子玉川高島屋のようなアメリカ的郊外ショッピングセンターが出現するに至ったのである。
またその出現、及び郊外人口の増加とモータリーゼーションの発達を背景に、ジャスコ、西友ストア、東急などを始めとするスーパー、百貨店、私鉄がデベロッパーとしての進出をねらい、通産省もショッピングセンターへの助成案を検討しつつあった。そして実際に不二屋、鈴屋、ワシントン靴店、キディランド、カメラのきむら、やまと、星電社、紀ノ国屋、イワキ、イトーヨーカ堂などの革新的経営者たちによってA・S・C・C(Advanced Shopping Center Conference)が結成され、さらなるショッピングセンター研究が進められていた。これが七三年の日本ショッピングセンター協会設立へとつながっているのだろう。
このような状況の中で、六九年にビクター・グルーエンとラリー・スミスの共著『ショッピングセンター計画』が翻訳刊行されている。サブタイトルには「ショッピングタウンU・S・A」、訳者の奥住正道はNCR(日本ナショナル金銭登録機株式会社)のマネジメント・システム室長だった。NCRはレジの販売だけでなく、欧米の流通販売に関するコンサルタントを兼ねていたと見なしていいし、版元の商業界は商業イデオローグ倉本長治を主幹とする『商業界』を発行していた。
『ショッピングセンター計画』は一九六〇年にSHOPPING TOWNS IN U.S.A. / THE PLANNING OF CENTERS を原文タイトルとしての刊行で、邦訳版は五千円の高定価に見合うA4判三百三十ページ、多くの図版、写真、パース、チャートなどが収録されている。さらに七一年にはやはり商業界から同じくグルーエンの、サブタイトルを「商業機能の復活」とする『都市の生と死』(神谷隆夫訳)が出され、この原著 THE HEART OF OUR CITIES は六四年の刊行である。
前書の共著者スミスは経済学者とあるので、『ショッピングセンター計画』の開発資金、テナント料、リースや予算といった財務関係を担当していると推測されるが、グルーエンは建築兼都市開発家の立場で、二冊の著者となっていて、便宜的に『都市の生と死』が理論編、『ショッピングセンター計画』が実践編と分けることができる。
グルーエンの詳細なプロフィルは明らかではないが、ウィーン生まれで、一九三八年にアメリカへ移住し、戦後のショッピングセンターの時代を迎え、その専門建築家の道を歩んでいった。彼はバウハウスの影響を受けているとされるので、私の推測では、それがアメリカにおけるフーリエやオーエンのユートピアプランとイメージ的につながり、郊外ショッピングセンター計画へと結実していったとも考えられる。
原著も翻訳も刊行年は後になるけれど、まずは『都市の生と死』を読んでみると、そこ明らかに見てとれるのは、グルーエンが建築家として提出した都市論であることだ。戦後のアメリカはそれこそ本連載8のハルバースタムが描いた『ザ・フィフティーズ』の後の六〇年代を迎え、郊外のスプロール開発を含んだ都市計画への批判や再検討の視座から多くの都市論が出されるに至った。
それは『都市の生と死』の巻末に掲載されたビブリオグラフィにも表われているし、グルーエンが同書において、ル・コルビュジェの近代都市論の古典『ユルバニスム』(樋口清訳、鹿島出版会)からルイス・マンフォードの六一年刊行の『歴史の都市 明日の都市』(生田勉訳、新潮社)にまで言及し、とりわけ後書に関して、自らの著作はそれが終わっているところから始まっているとの自負にも明らかである。
『歴史の都市 明日の都市』の刊行の同年には、ジェイン・ジェイコブズの都市計画に対する批判的バイブルとされる『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳、鹿島出版会)も出され、もちろんグルーエンも言及しているし、邦訳タイトルもそれを模倣していることは言うまでもないだろう。ジェイコブズは同書でグルーエンのフォートワース市のダウンタウン再開発計画を批判的に論じているのだが、ここではマンフォードの『歴史の都市 明日の都市』のほうを取り上げてみる。
これは世界史における古代から現代にかけての都市の変容をたどった啓蒙的大著であり、それは郊外と巨大都市=メガポリスのアポリアと閉塞感で閉じられているような読後感を否定できない。その印象から考えると、グルーエンが『都市の生と死』を、『歴史の都市 明日の都市』が終わっているところから始まると述べている意味もわかるような気がする。グルーエンはマンフォードのような建築批評家ではなく、あくまで実践的な建築兼都市計画家なのだ。
そのグルーエンの目に映った郊外の風景を『都市の生と死』から抽出してみよう。彼は「郊外風景」のテキサス州ヒューストン市の航空写真、「準都市風景」としての主要郊外ハイウエイのカリフォルニア州ロスアンゼルスのベンチュラ大通りのロードサイドビジネスの林立する風景、同じ地域にある「自動車捨て場」の写真を示し、次のように書いている。これがアメリカの五〇年代を通じて出現した郊外の景観と判断していいだろう。少し長くなってしまうが、『都市の生と死』は入手困難で、重版もされないであろうから、省略を施さずに引用してみる。
まがいものの時代的大邸宅からなる高級住宅街から、検査の必要なディングバット住宅(ウエストコートで広く使われている投機的建築屋が低コスト短期間で建てた住宅―引用者注)が並んでいる。名も知らぬたくさんの住宅でごみごみした一帯まで、さまざまな様相を呈している郊外風景がある。郊外(サバービーア)とは安い土地と、人種的隔絶の地であり、そこには偽りの尊敬と真の退屈がある。
さらに準都市風景がある。その範疇はその他すべてのものを合わせたものよりたぶん広い地域を包括していて、都市風景や工業風景や郊外風景、そして輸送風景の一番悪い要素を合わせもった不協和音である。つまり主要な広域都市地域における「赤い灯青い灯の地区」で、蛭のように道路やハイウエイに吸いつき、わずかに残されている田園風景をもすべてさえぎってしまっている。つまりそれはわれわれの都市や町への恥ずべき野暮な進入口であり、都市の受けた天罰である。準都市風景はガソリンスタンドや修理屋、それにほったて小屋やバラック建築、そして中古車置場に看板、ごみの山と道路わきの売店、ハイウエイストアとくずやほこりやがらくたをその特徴とする。それは四方八方に雑草のようにのび、都市の景観のところまで達しており郊外(Suburbia)を侵害して都市と町の間や異なった広域都市地域間において分散して存在する。
準都市風景はその触覚をあらゆる方角にのばして、地域や州そして国をおおいつくしていく。それは他のあらゆる都市の構成要素をいちばん低いレベルにまでひきずり下ろし、それらの機能するところを妨げ、それらの間のコミュニケーションを断ち、都市景観や郊外風景を田園風景または自然に近づけようとするあらゆる試みを悪夢に転じてしまう。その存在は無干渉主義的プランニング、もしくはプランニング不在のもっている最も顕著な罪状である。
ここに示された「郊外風景」は都市計画の失敗との郊外のスプロール開発の結果を告げるものであり、グルーエンはそれを称して、「無干渉主義的プランニング、もしくはプランニング不在のもっている最も顕著な罪状である」と断罪している。彼の定義を私なりに言い換えれば、健全な都市の特徴と性格は個人と公共のバランスが保たれ、コンパクトであること、住民の日常活動に中心性が求められること、あらゆるタイプの人間活動が多様でありながらも混じり合い、細部にわたってパターン化されていることにあるとされる。それゆえに引用されている「郊外風景」は健全な都市とはいえず、「プランニング不在」の「悪夢」のようなものとして映っている。
その無残な現状に対して、提出されるのがサブタイトルに示された「商業機能の復活」であり、健全な都市の三つの条件を兼ね備える「商業機能」としてのショッピングセンターが提案されることになる。その具体的提案と実現が『ショッピングセンター計画』ということになろう。
グルーエンはショッピングセンターを単なる「商業機能」としてではなく、そのトポスモデルを古代ギリシャや中世の市場、あるいは近代の広場に求め、さらにショッピングセンターは現代になってから創造された数少ない建築様式のひとつだと述べている。またショッピングセンターは多数の人々の要求と活動に奉仕する都市機能体だと見なし、そこからショッピングタウンという名称も引き出している。かくしてグルーエンは「ショッピングセンターが、ただ物質的生活の必要条件だけを郊外居住者に与えるのではなく、同時にその市民的、文化的地域社会の必要に役立つならば、それは、われわれの生活を豊かにすることに大きく寄与することになる」と結論づけている。
その提案、実践、検査編としての『ショッピングセンター計画』は開発、経済面、法律、資金調達、工事、社会学、キイテナントの組合せとその問題、マーチャンダイジング、開業販売促進と多岐にわたって展開され、そのケーススタディとして二十三のショッピングセンターの例がそれぞれ写真入りで示され、アメリカの五〇年代が紛れもないショッピングセンターの時代であったことを伝えてくれる。そしてこの一冊がショッピングセンターに関するバイブルとされたことにも納得できるし、日本の七〇年代においてもそのように読まれ、位置づけられたと思われる。
しかしもはや現在にあって、グルーエンとその著作の痕跡をたどることは難しい。確かにジェイコブズの著書にあったフォートワース計画に関しては、リースマンの『何のための豊かさ』(加藤秀俊訳、みすず書房)所収の「郊外の混乱」や「豊かさのゆくえ」にも見出され、グルーエン、もしくはグルーウェンのフォートワース計画が挙げられているが、深い言及はなされていない。
『ショッピングセンター計画』には写真とバース入りで、フォートワース計画が紹介され、これがテキサス州フォートワース市におけるショッピングセンターをメインとする下町地域復興プロジェクトだとわかる。これらの事実はグルーエンのショッピングセンターにまつわる仕事が社会学、都市論、建築史において、もはや忘れさられてしまったのか、あるいは等閑視されていることによっているのだろうか。
それは日本でもほぼ同様であり、『建築大辞典』(彰国社)にショッピングセンターの立項はあるけれども、グルーエンの名前はない。それはひとえにグルーエンの著作が商業界という商業出版社から出されたので、流通業界に属する出版物と見なされたこと、ショッピングセンター建設が建築というよりも、デベロッパーの色彩の強い開発行為のイメージに覆われていたことに求められるのではないだろうか。
しかしグルーエンのこの二冊は、今まさにショッピングセンターの時代を迎えている日本において、もう一度読まれてしかるべき著作と思われる。
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