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古本夜話403 片岡昇『カメラ社会相』

安藤更生の『銀座細見』に続いて、松崎天民『銀座』も中公文庫版ではなく、戦前の原本を見てきたが、やはり同時代の昭和三年に出された片岡昇の『カメラ社会相』も取り上げてみたい。これも東京考現学の一冊と称すべきもので、三一書房の『近代庶民生活誌』(第七巻『生業』、一九八四年)に収録されているが、抄録であり、写真の大きさも異なり、原本を参照するにこしたことはないからだ。
  

『カメラ社会相』は梅原北明の文芸市場社から刊行され、装丁は酒井潔が担当し、革装の特製と並製があり、私の所持する一冊はもちろん後者で、奥付表記は三版となっている。文芸市場社の本を紹介するの本連載28の和田信義『香具師奥義書』、同47の復刻版『我楽多文庫』に続き、三冊目ということになる。

著者の片岡は『時事新報』のカメラマンで、二十年近くこの仕事に携わり、「小序」にある言葉を借りれば、「私にはカメラと云ふ武器がある。パチリと撮つて、さてお話をと出ると大抵の人は柔らかで身の上ばなしを初める、これは全くカメラマンの役得」となる。そのようにして第一篇においては街頭に出て、九十数枚の写真を撮り、それらの様々な職業の人々にインタビューし、また第二、第三篇にあっては六十人ほどの名士、学者、名人、収集家を訪問し、近況などを問うている。それは自ずから、人物写真とペンによる「社会相」を浮かび上がらせる仕掛けになっている。

こうした仕掛けについて、長谷川如是閑が「『カメラ社会相』に叙す」で、今日のような「その進化と退化とに於て無常迅速である社会相」において、カメラマンの出現は現代の必然であると指摘し、次のように述べている。

 この意味に於てカメラ・マンこそは、決して嘘をつけない現代社会史家である。彼が嘘をつけないのである。(中略)
 加ふるに君の社会史は、一方で嘘のつけないカメラを以てすると同時に、他方では、嘘もつける文字を以てするという両天秤で、所謂虚々実々の妙を極めてゐる。されば君の『カメラ社会相』一篇は、嘘のつけないカメラの結実を文字で補い、嘘をつける文字の欠点をカメラで補(中略)つて(中略)ゐるに相違ない。
で序文を書けとのことだが、序文はカメラで書く訳にも行かないので、文字で書くが、然し、文字でこそ書かれた此の序文には決して嘘のないことを保証する。

本連載336337で、アルスの大正から昭和初期にかけての多彩な写真書にふれ、新しい「写真時代」の出現を意味するものだとの旨を既述しておいたが、如是閑の言葉もまた「嘘のつけないカメラ」による写真は「嘘をつけない現代社会史」を形成すると見なされるようになっていたジャーナリズム状況を伝えている。

それは演出や編集を想定しないナイーブな写真をめぐる環境だったといっていい。如是閑と同様に、河東碧梧桐も「序文」にあたる「片岡君の『カメラ社会相』」において、世相は「人間の諸相」であり、そこに世の真実があるという意味のことを述べ、「片岡君は、カメラを通して世相を観ようとする」と書いている。ここにあるニュアンスも「嘘のつけないカメラ」といったもので、この延長線上に『カメラ社会相』の企画出版が実現したのであろう。すなわち「嘘のつけないカメラ」を通じて、社会の実相を描き出すというコンセプトによって。

そのようなコンセプトとニュアンスを背景にして、片岡はカメラを手に持ち、社会に繰り出し、それはまず第一篇「街頭訪問の巻」としてまとめられる。『近代庶民生活誌』における復刻はこの第一篇だけである。しかしその前に序章めいた「軽業」という二枚の写真を添えた一文が置かれ、昨今の活動写真や安来節の流行で、日清戦争から日露戦争にかけてもっとも隆盛だった浅草の軽業に代表される見世物が火の消えたようになくなり、「時代の推移と云ふものゝ何となく寂しい」と片岡は告白している。
『近代庶民生活誌』(17巻『見世物・縁日』)

そうした序章めいた一文を読んでから、あらためて、「街頭訪問の巻」を繰っていくと、日本橋の名物である白服の交通巡査、大道の支那芸人、ラッパを吹く軍服姿の飴屋、特殊地帯富川町の居酒屋で飲んでいる自由労働者たち、電話の電線工夫などの写真、及びそれらの人々へのインタビューを交えた文章が続いていく。しかしそれらの写真から伝わってくるのは浅草の軽業ではないけれど、このような仕事も、それに従事する人々もいずれ消えてしまうのではないかという哀惜感に包まれているように思える。これらの写真が撮られたのは大正十四年であり、関東大震災後の東京の街頭の風景といえる。それらの仕事もまたその時代と社会が生み出したものであり、それこそ街頭の「見世物」のような気配も漂わせている。

きっと片岡は浅草の軽業がそうだったように、これらの街頭における「見世物」めいた仕事も、やがて消えていくだろうと予感し、その写真を「嘘のつけないカメラ」で撮ったのではないだろうか。実際に現在ではそのような街頭における仕事とその風景は消えてしまったといっていいのだから。このように考えてみると、アジェが撮った十九世紀のパリの風景が思い出され、重なり合ってくる。
写真の巨匠アジェ展(『写真の巨匠アジェ展』) アジェのパリ(『アジェのパリ』)

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