前々回の山田太一の『岸辺のアルバム』のヒロインで、孤独な主婦の田島則子が還暦を迎え、夫の定年を機にして家出したとすれば、それはどのような物語として展開されるだろうか。まさにそれが近藤ようこの『ルームメイツ』の物語に他ならない。しかも『ルームメイツ』は近藤ようこにとっても、最も長い作品、全四巻(文庫版全三巻)に及ぶ長編コミックであるゆえに、小説やシナリオやテレビドラマとも異なる時間の流れとリアリティを孕んで進行し、『ビッグコミック』連載が六年にわたっていたように、その物語も五年間の長きに至っている。

「ねえ、時ちゃん。
六十にもなって、今さらこんなマンションに住むことになるとは、思わなかったわ。
おまけに、都心から一時間もかかる、新興住宅地。」
「いいじゃないの、ミハルちゃん。緑がいっぱいで、空気がきれいで……」
「そうね……ここまできたからこそ、わたしたちふたりのお金でも、マンションが買えたんだものね……」
そしてさらに続く会話から、二人の女性が夫も子もなく、六十歳を迎えたことがわかる。彼女たちはこの「都心から一時間もかかる、新興住宅地」のマンションで同居するために引越してきたばかりなのだ。還暦の女性たちの老後も郊外の物語となってしまうのである。
『ルームメイツ』の時代設定は明らかではないけれど、『ビッグコミック』で連載が始まったのは一九九一年三月二五日号からなので、昭和は終わっていたが、まだバブル崩壊は迎えていなかった。それゆえに郊外はまだ人口の増加を伴って成長し、住宅地の開発やマンション建設が続いていたのであり、彼女たちも「ふたりのお金」の関係から、郊外をめざすしかなかった時代状況が浮かび上がってくる。かくして必然的に女たちの「終の栖」も郊外に見出され、『ルームメイツ』の物語が先に引用した二人の会話から始まろうとしている。
そのきっかけは去年の小学校の同窓会での彼女たちの再会にあった。それは四十数年ぶりのことで、菅ミハル、坂本時世、森川(潮田)待子の「昔の仲よし三人組がおばさんになっ」て出会ったのだ。「来年のひつじ年には還暦よ!」との言葉も見えているので、彼女たちは昭和初年生まれと推測される。
ミハルは芸者置屋の養女で、小学校を出てから本格的に修業し、お座敷に出るとすぐに「ダンナ」に落籍(ひか)され、ずっと「二号さん」の身だった。しかしその「ダンナ」も二年前に死に、今は長唄を教える師匠であった。
時世は小学校教師を務め、父や兄が戦死したこともあり、弟や妹の面倒を見ていて、とうとう嫁にいきそびれ、母が亡くなってからずっと一人暮らしだった
待子だけが見合いで結婚した平凡な主婦の立場にあった。ミハルと時世の二人は彼女に「……待子ちゃんらしいわ。(中略)平凡な奥さんか……。うらやましい」と声を揃えていう。その言葉の背後には、時世の場合、地上げのために二十年間住んだアパートの立ち退きを要求され、定年の身で引越しなければならない状況に追いやられ、ミハルもまた「ダンナ」に買ってもらった家から出ていなければならない事情を抱えていたことも投影されていた。
このような同じ状況に置かれていたことから、時世とミハルは二人の立ち退き料や貯金を出し合い、マンションでも買って、一緒に暮らす計画が「一気に決まった」のである。
その同窓会の回想シーンの挿入から郊外のマンションの場面へと戻り、新しい生活に向けての二人の決意が述べられる。時世とミハルは向かい合い、手を握り合い、次のような言葉を交わすのだ。
そして時世は洋室、ミハルは和室を使い、新しい土地で時世は塾の講師の仕事を見つけ、ミハルは自分の部屋で長唄を教えることにしていた。
しかしそこに、先述した『岸辺のアルバム』の則子と重なる待子が突然訪ねてくる。家出してきたのだ。好きでもない男と暮らす苦痛を三十年間がまんし、その間に二人の子どもは成長し、結婚して家を出た。ところが亭主は定年退職し、今は一日家にいる。それに耐えられないと待子はいう。それに対して、時世やミハルは「熟年離婚のパターン」で、「主婦ってぜいたくね」と反論するが、「まっ、しばらくの間、おいてやろうか」ということになる。
こうして思いもかけず、二人ではなく、三人の同居が始まっていく。「いかず後家」と「二号」と「箱入り主婦」という組み合わせはうまくやっていけるのだろうか。食事や風呂をめぐって、時世とミハルの間にはすでに齟齬が生じている。そこに待子の役割が見出されるのである。それまで二人に対し劣勢だった彼女は水を得た魚のようにいう。「今まで、ひとりで好き勝手に暮らしてきた人たちが、急に同居なんて、無理な話よ、常識的に。その点、主婦はバラバラになりがちな家族をまとめ、家庭を破たんなく、運営していくものなのよ」。待子はその主婦を引き受けるつもりで、自らの役割をあらためて認識したように、「還暦の年女三人、仲よくやっていきましょ」と付け加える。
そして三人は「家族」であること、それも「新しい『家族』=『家庭』」であることを確認し合うのである。また最初にマンションが描かれるシーンにおいて、時世とミハルの名前の表札が一コマ挿入されていたが、この第一話の最初のコマに再び表札が描かれ、そこには潮田に二重線を引いた森川待子の名前が二人の間に書きこまれ、終わっている。
待子の家出先が親族や子どもたちのところではなく、四十数年ぶりに再開したばかりの幼なじみの二人のマンションなのは、タイトルに示されているように、物語にとって必然的なプロットであるばかりでなく、一九八〇年代を通じて変容した家族のイメージに基づいているはずだ。例えば、待子の所謂「熟年離婚」にしても、この「熟年」は八〇年前後に中高年層のライフスタイルを表現するキーワードとして、広告代理店によって使われ始めたもので、当初は趣味などの「生きがい」を見つけ、納得のいく生活を送る経済力のある中高年世代をさしていた。それが次第に中高年世代の総称ともなり、「熟年離婚」なるタームも生まれていったことになる。そのような動向とパラレルにフェミニズムの台頭も重なり、妻の側からの提起による「熟年離婚」も多く発生するようになり、『ルームメイツ』では言及されていないが、実際に近年では「熟年離婚と性」というサブタイトルを付した工藤美代子の『炎情』(中公文庫)なども刊行されている。
それらは家族だけではなく、家庭や夫婦や性のイメージも変容し、新たな地平へと向かいつつあった八〇年代を表象していよう。吉本隆明は『共同幻想論』(角川文庫)の「対幻想論」において、夏目漱石の結婚生活と家族小説に他ならない『道草』にふれたところで、漱石の願望が夫婦の本質を求めていることに対し、細君はそれはどうでもよく、家族の形成が世間に流通する習俗に忠実に従っているだけだと指摘していたが、この時代になって妻が夫に対して夫婦の本質を問う段階へと至った。「熟年離婚」はその一つの表出といえるし、吉本にならっていえば、それは八〇年代以後の「家族」の問題であり、それとともに親族や子どものイメージも揺らぎ始めていることになる。そうした事柄を前提にして、待子の幼なじみのマンションへの家出がなされているし、また彼女自身の親族や親しい友人や隣人などは描かれておらず、家出の選択肢とモチベーションがそこでの生活にしかなかったのである。それは結婚する以前の自分の世界への回帰と再生と見なせよう。
そしてこの『ルームメイツ』で提出されている、待子が幼なじみと織りなす「新しい『家族』=『家庭』」こそは、まだその言葉は見えていないけれど、「シェアハウス」に基づく混住家族と考えることもできよう。それは『岸辺のアルバム』の家父長的近代家族、『金曜日の妻たちへ』の友人関係をベースとする現代家族の在り方とも異なっている。それに双方はいずれにしても一対の男女としての夫婦、吉本隆明のいう「対幻想」をコアとして展開されているが、『ルームメイツ』の「新しい『家族』=『家庭』」とは、あくまで血縁もない幼なじみで「還暦の年女三人」が営み、形成されていくものとして設定されている。それだけでなく、彼女たちと「新しい『家族』=『家庭』」は周辺の様々な家族を映し出す鏡像のような機能も果たすことになる
それでは『ルームメイツ』の物語はどのような行方をたどるのか。それは「還暦の年女」三者三様のかたちで展開されていくのだが、ここでは最初に『岸辺のアルバム』の則子が還暦を迎え、家出したら、どのような物語が出現してくるのかという問いから始めたこともあり、彼女の後身と見なせる待子のケースを追ってみる。そうした追跡がふさわしいかのように、彼女の周辺には残された夫、息子夫婦、娘夫婦の生活が揺曳して重なり、『ルームメイツ』の三人の物語とパラレルに進んでいくからでもある。そして待子と子どもたちの三つの結婚生活が逆照射され、あらためて問われていく。
一人残され、離婚届を送られた夫はその理由もわからずに途方に暮れている。息子の聡と娘の美智代にしても、父と母が仲の悪い夫婦には見えなかったことから、母の家での真意がつかめず、二人で郊外のけやき台で待ち合わせ、「おふくろが居候している家に、あいさつにいく」。その途中で交わされる兄妹の会話から、マンションに住む美智代には子どもがいないとわかる。団地住まいの聡には一人息子がいるが、父と同様に仕事に追われ、家族サービスはほとんどできていないようで、妻の淳子は母の待子の家出に共感の意を示していたのである。
それでも兄は妹に子どもはまだかと問う。すると妹は子どもをつくるために結婚したのではなく、一生仕事を続けたいと答える。それに対して、兄は「子どもがいなきゃ、『家庭』じゃないよ。老後がさびしいぞ」と応じるのだが、妹は「子どもがいても、さびしいかもよ。お父さんみたいに……」と返すのだ。あえて類型化を試みるならば、同じ家族の中で成長してきた兄妹であっても、兄の聡は父と重なる『岸辺のアルバム』の近代家族のイメージを反復し、妹の美智代は『金曜日の妻たちへ』につながる現代家族の方向へと踏み出していることになろう。
そのような息子と娘は、「新しい『家族』=『家庭』」で独身に戻り、「若作り」し、「無邪気で子どもっぽくて、感情をすぐ表に出」す母と再会する。それが二人も知らなかった待子の本来の性格だったのである。帰ることを拒否する母に息子はいう。父は僕たちのために働いてきたのに、退職したとたんに離婚だなんて。「今の日本を作ったのは、おやじみたいな男たちなんだ! その報酬がこれですか!」と。
しかし待子はいうのである。自分たちその家族にも、美智代の結婚式を最後の日として「夕暮れ」が訪れた。私の「家庭」はもうなくなった。そしてその「夕暮れ」はどの家族にもやってくるので、私たちの「二の舞はしてほしくない」という待子の意志の表明になろう。
「還暦の年女三人」からなる「新しい『家族』=『家庭』」の場において、待子と夫の営んできた家族、聡の家族、美智代の家族という、それぞれに異なる実像が浮かび上がり、家族の困難さと必然的な「夕暮れ」の訪れが、『ルームメイツ』の物語のテーマに他ならないことを暗示させている。それは三人の「新しい『家族』」のみならず、待子と子どもたちの三つの家族の物語として波及し、それらとパラレルに時世やミハルをめぐる、これも多様な家族のかたちとなって、『ルームメイツ』の物語に深い奥行を添えていくのである。
近代家族から現代家族へ、現代家族からさらに新たな家族のイメージへと向かおうとしている、あるいは模索しつつあった一九九〇年代を象徴する醇乎とした作品として、『ルームメイツ』は提出されたように思える。また同時代には同じような新しい家族の物語がやはり女性によって紡ぎ出されていた。それは高橋留美子の『めぞん一刻』や西原理恵子の『ぼくんち』であり、奇しくも近藤と高橋は同じ高校の漫研に属していたと伝えられている。
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