事件が発生したのは一九九六年六月二日のことで、強い雨が降る夜だった。それは高層マンションの一室で起きたのである。まずはその建物と開発、建設プロジェクトの全容を示そう。
普通なら、営団地下鉄日比谷線北千住駅のホームからも望むことができる、「ヴァンダール千住北ニューシティ」ウエストタワー地上二十五階建ての偉容も、この日は風雨にはばまれ、白い霞のなかに埋もれてしまっていた。より正確には、東西の高層タワー二棟と、それに挟まれた中層の一棟を含む「ヴァンダール千住北ニューシティ」全体が、土砂降りの雨の底に沈んでいたのである。従って、事件現場であるウエストタワー二十階の二〇二五号室を、もしもこのとき誰かが見上げていたとしても、そこには水煙以外の何物も見えなかったことだろう。
「ヴァンダール千住北ニューシティ」開発建物計画は、プロジェクトとしては、昭和六十年四月に立ち上がった。大手都市銀行とその系列不動産会社、ゼネコン、地域密着型の中規模建設会社が手を結ぶという形の共同事業である。
敷地買収したのはパーク建設というマンション建設業者としては新興勢力だが、この種の大型開発は実績があり、横浜郊外の老朽化した集合住宅をひとまわり大きいニュータウンへと生成し、成長企業とされていた。
この「ニューシティ」の敷地の大半はニッタイという合成染料製造会社のもので、その大煙突は長きにわたって町の目印だったが、地元住民との関係は絶えざる騒動の歴史でもあった。それは高度成長期以後の荒川上流における住宅開発にまつわる住居専用地域と準工業地域の複雑な混住がもたらした騒音、異臭、排水処理、交通事故といった問題が火種となっていた。それゆえに住民にしてみれば、この大型マンション計画に反対するものはいなかった。モルタルの古い一戸建て、トタン屋根の店、疲れ果てた工場町から見れば、それがユートピアのように思われたからだ。
しかしこのプロジェクトの立ち上がりが一九八五年だったのは象徴的で、七〇年代前半に消費社会化した日本は、この時代にバブルを伴う高度資本主義消費社会へと移行しようとしていた。そのバブルの象徴となったのは土地で、例えば、下川耿史家庭総合研究会編『増補版 昭和・平成家庭史年表1926−2000』(河出書房新社)を確認してみると、八六年には都心の土地の値上がりがすさまじく、とりわけ千代田、中央、港区の都心三区は前年よりも50%も上がるという「狂乱地価」の時代だったとわかる。それとは逆に高度成長期の工業社会の後退を告げるように、ニッセイの業績は悪化していて、敷地を売却し、撤退するしかないところまできていた。それが「ニューシティ」プロジェクトの背後にある発端事情だった。
そして八八年に建築着工の運びとなり、地上二十五階建ての東西両タワーにはそれぞれ三百世帯、中央の中層棟には十五階建てで、管理棟も含み、百八十五世帯、総戸数七百八十五戸が入居できる「ニューシティ」分譲計画も発表されるに至った。これを受け、一般分譲は八八年から八九年までの五期にわたって行なわれ、すべて期間中に完売となり、入居開始はそれぞれの販売時期の半年から一年後に設定されていた。この時期に関して、宮部は『理由』の物語のよってきたるべきところを提示せんとして、次のような説明を注意深く挿入している。
それはつまり平成二年、バブル崩壊の年だ。ヴァンダール千住北ニューシティという「町」は、バブル経済と共に誕生を約束され、その崩壊と共に産声をあげたことになる。
しかし、虚ろに膨らみきった経済がはじけることで過酷な影響を受けたのは、この新たな「町」の場合に限っては、「町」をつくったパーク建設の側ではなかった。今まさに「町」へ住み移ろうとする、新しい「住人」たちの側であったのだ。
(朝日文庫)
それはウエストタワー二〇二五号室の「荒川の一家四人殺し」として記憶される大量殺人事件となって表出したのだった。マンションの一階のツツジの植え込みの間に、上階から転落した若い男の死体が発見された。その転落した部屋を探求していくと、それが二〇二五号室で、三人の男女が殺されているのが見つかった。ウエストタワーの管理人によれば、その二〇二五号室は住人が変わりやすい「縁起の悪い部屋」だった。ただそれは二〇二五号室だけでなく、このマンションに共通するもので、全分譲戸の入居が完了した九〇年から九六年の間に、入居戸数の35%の世帯が入れ替わり、しかもそのうちの18%は複数の世帯の代替わりであり、永住型分譲マンションとしては異例だといっていい。その事実は「虚ろに膨らみきった経済がはじけることで過酷な影響を受けた」「新しい『住人』たち」の厳しくなっていった住宅ローン状況、投資環境の悪化、マンション資産のデフレ化を物語っている。これが「ニューシティ」の経済実態だったことになる。
それを具体的にトレースすれば、二〇二五号室の場合、最初のオーナーは一億七百二十万円で買い、これは転売目的であったために、バブル崩壊により八千百二十万円で売却した。二割以上の大損だったが、これは売り抜けたほうである。この買い手は資産家の跡継ぎの若い新婚夫婦だったけれど、入居半年後に離婚し、部屋は若い妻の物になったが、彼女は一年ほど住んだだけで、九二年に七千二百五十万円で売却し、出ていった。
また付け加えておけば、二〇二五号室は4LDKで、専有面積は一〇一・二四平方メートル、玄関から奥まで廊下が走り、その突き当たりに十五畳のリビングダイニングがある。そして廊下をはさんで右側に台所とふたつの洋室、左側に洗面所と風呂場、和室と洋室のひとつずつが並んでいるという間取りである。
この三番目の買い手にして入居者となったのは小糸という四十代の夫婦と小学生の男の子供からなる一家であった。それならば、リビングとベランダで殺されていたのは小糸夫妻だったのだろうか。年齢的には合うけれど、同じく和室で殺されていた老女、及びその部屋から転落したと見なせる若い男は誰なのか。それがアリアドネの糸のようにたどられ、『理由』のもうひとつのテーマといえる「家族」の問題を浮かび上がらせていく。
しかし住居であると同時に高額な商品に他ならないマンションから形成される「ニューシティ」をめぐり事件は、警察や刑事の側だけでなく、その住民や管理人も含めた周辺の多様な視線と証言を通じて解明されていくのである。それが『理由』を貫いている物語文法と見なせるし、実際に宮部もまたイントロダクションに当たる3章の冒頭に、次のような一文を置いている。
磁石が砂鉄を集めるように、「事件」は多くの人びとを吸い寄せる。爆心地にいる被害者と加害者を除く、周囲の人びとすべて―それぞれの家族、友人知人、近隣の住人、学校や会社などの同僚、さらには目撃者、警察から聞き込みを受けた人びと、事件現場に出入りしていた集金人、新聞配達、出前持ち―数え上げれば、ひとつの事件にいかに大勢の人びとが関わっているか、今さらのように驚かされるほどだ。
そのようにして「周囲の人びとすべて」といっていいほどの「大勢の人びと」が召喚され、『理由』という物語が形成されていく。それはバフチンが、『ドストエフスキイ論』(新谷敬三郎訳、冬樹社)で論証している「ポリフォニー小説」を想起させる。「ポリフォニー」とは「それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち」が重みのある対位法を駆使して展開されるもので、それがドストエフスキイの小説の基本的性格とされる。それにまたドストエフスキイも日本のミステリー成立に大きな影響を与えた『罪と罰』や『悪霊』などのクライムノベルの作者だったのだ。バフチンは「多くの性格や運命がひとりの作家の意識に照らされて展開するのではなくて、それらの世界と等価値の多くの意識たちが、その個性を保持しつつ、連続する事件を貫いて結び合わされる」と述べているが、これは『理由』にも当てはまるし、ふさわしい言葉のようにも思える。
その一方で、荒川北警察署には「荒川区内マンション一家四人殺し」特別捜査部が設置され、本格的な捜査が始まった。またマンション管理に携わるパーク建設は、今回の事件が売り出し中の相模原の超高級マンションのイメージダウンをもたらすのではないかと神経質になっていた。コミュニティ意識の希薄さ、隣で事件が起きても気づかないし、無関心なままであるという超高層マンションの居住空間の不適切性の問題がクローズアップされてくるからだ。
そうした状況の中で、隣室の住民の証言から二〇二五号室は中年の夫婦らしき男女、夫婦の母親らしい高齢の女性、やはり夫婦の妹のような女性、これも夫婦の息子と思しき二十歳と中学生ぐらいの二人の男、及びもう一人の中年男性という七人の大家族だったようだと判明する。しかもそのうちの中年夫婦、高齢の女性、若い男は遺体で発見された四人と重なる。またこれらの七人のメンバーが見かけられた時期にばらつきがあり、中年男性と身なりの派手な三十歳代の女性と中学生は九六年の春先前、後の四人は春先後であり、前者が小糸一家、後者が遺体で発見された人たちで、二〇二五号室において、この二家族が何らかの事情で春先を境にして入れ替わっていたことになる。
そして捜査が進むにつれ、小糸一家は住宅ローンが払えなくなり、二〇二五号室は銀行に差し押さえられ、競売を申し立てられていた事実に突き当たる。このことから推測すると、三月頃から二〇二五号室に住み着いていたのは、所謂「占有屋」ではないかと目された。それはほぼ事実で、小糸のローン支払いが長期にわたってストップしたことにより、住宅金融公庫が差し押さえ、競売処置がとられ、小糸一家は「逃げる家族」として、家具などもそのままで夜逃げ同然に二〇二五号室を立ち退いたのである。それは競売入札が終わり、「買受人」が決まる頃だったが、小糸は二〇二五号室を取り戻す手段として、不動産会社の早川社長の手引きで、四人の「占有屋」を住まわせることに同意していた。これは古典的にして典型的な不動産競売の執行妨害の手口だった。
そのような物件、まさに「縁起の悪い部屋」に他ならない二〇二五号室を落札した「買受人」は不動産業者ではなく、一市民の石田だった。彼は地方出身者で、浦安の賃貸マンションに住んでいたが、元はニッタイの社員であり、その跡地に建つ「ニューシティ」のマンションを買うことに執着し、裁判所の競売物件のことを知り、「買受人」となったのである。だが事件後、石田は失踪していた。
それでは「占有屋」の四人は何者だったのか。早川によれば、夫の砂川は元タクシー運転手で、妻と長男、それに老母を抱え、アパートから追い立てにあっていた。それで砂川とその家族は二〇二五号室へと移り住むことになったのだ。しかし「写真のない家族」とされる砂川一家は、まさに「疑似家族」とでも呼べるものだった。砂川は十五年前に母、妻、息子をおいて行方不明となり、妻も十年前に家出し、息子も同様で、老婆もまた浜松の有料老人ホームからの失踪者だったのであり、それぞれは砂川が捨てた母、妻、息子の名前で呼ばれ、「疑似家族」の生活を営んできたことになる。
ユートピアのような高層マンションで「現代家族」を営むことをめざし、「逃げる家族」や「写真のない家族」=「占有屋」、それに地方出身者の「買受人」が一堂に会することによって事件が起き、さらにそれに「片倉ハウス」や「宝食堂」といった工場町の「近代家族」も巻きこまれていったのである。砂川が行方不明になった後、ずっと義母と暮らしてきた妻の砂川里子は、四人殺しが起きたのもあのマンションゆえだったのではないかとモノローグのように語るのだ。ここにもこの『理由』のテーマのひとつがこめられているように思えるので、それを引用し、閉じることにしよう。
(新潮文庫)
お義母さんみたいな嫁が―いえ、女がそういうふうに苦しまなくちゃならなかった時代は、ほんとちょっと前のことなんですよ。今は何もなかったように口をぬぐって、あたしたちに日本人みーんなきれいな顔してますけどね。
あたしねえ、あの目もくらむような高いマンションの窓をね、下からこう、見上げて、思ったんですよ。このなかに住んでる人たちって、そりゃあお金持ちで、洒落(しゃれ)てて、教養もあって、昔の日本人の感覚からしたら考えられないような生活をしているんだろうなって。だけど、それはもしかしたらまやかしかもしれない。もちろん、現実にそういう映画のような人生をおくる日本人もいるんだろうし、それはそれでだんだん本当の本物になっていくんでしょう。だけど、日本ていう国全体がそこまでたどり着くまでのあいだには、まだまだ長い間、薄皮一枚はいだ下に昔の生活感が残ってるっていうような、危なっかしいお芝居を続けていくんじゃないですかね。核家族なんて言ってるけど、あたしのまわりの狭い世間のなかには、本当の核家族なんか一軒だってありゃしません。みんな、歳とってきた親を引き取って同居したり、親の面倒をみに通ったり、子供が結婚して孫ができりゃ、今度は自分たちが自分たちの親のように早晩邪魔者扱いされるようになることに怯(おび)えたりしてるんです。そりゃもう、いじましい話が山ほどありますよ。