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古本夜話537 高畠素之訳『資本論』

ヴェブレンの『有閑階級論』『特権階級論』と同様に、大正時代にマルクスの『資本論』も翻訳刊行されていった。それは高畠素之によってであるが、それ以前にも松浦要訳の経済社からの第一、二冊、生田長江訳の緑葉社からの第一冊が出されたけれど、それらは中絶に終わっていた。高畠訳にしても、いくつもの出版社を経て、その度に改訳がなされ、完結にこぎつけ、戦後の新しい訳の範であり続けたことになる。

まずはそれらの出版社と第一巻刊行年と巻数を示してみる。

 1 大鐙閣・而立社  大正九年   全十巻
 2 新潮社      大正十四年  全四巻
 3 改造社      昭和二年   全五巻

(『資本論』、改造社版)

1の大鐙閣は拙稿「天佑社と大鐙閣」(『古本探究』所収)や本連載172「麻生久『黎明』、大鐙閣、『解放』」でふれているように、大阪の久世勇三によって大正初期に創業され、『改造』や『中央公論』と並ぶ総合雑誌『解放』を大正八年に創刊した版元だった。その顧問格であった経済学者の福田徳三の意向で『資本論』の翻訳企画が立てられ、売文社の堺利彦を通じて、その理事長の高畠のもとへと持ちこまれた。それを引き受けて高畠は翻訳に没頭し、大正九年に第一冊が刊行されるが、途中まで出したところで関東大震災によって大鐙閣も罹災し、出版事業を断念する状況へと追いやられてしまった。そこでその東京支配人の面家荘吉(拮)が而立社を立ち上げ、続刊を引き受け、大正十三年全十冊の完結を見たのである。その間に高畠は五年の星霜を閲していた。
古本探究

前回ヴェブレンの『有閑階級論』が而立社の『社会科学大系』の一冊として刊行されたことを既述したが、ヴェブレンもマルクスも時代を同じくして翻訳されていたのだ。なおそのヴェブレンの猪俣津南雄訳『特権階級論』の新光社からの刊行は、麻生久などの『解放』人脈によるものだろう。

2の刊行経緯とその事情は『新潮社四十年』や『新潮社七十年』にもふれられておらず、「歴史的大翻訳」「わが国最初の『資本論』の完訳」とあるだけだ。それでもこの出版は次のように推測できる。その前年の大正十三年に新潮社から『社会哲学新学説大系』が出され、このシリーズは而立社が三冊刊行した『社会哲学大系』の続編に当たるものだったこと、そのうちの一冊がバラノヴスキイ、高畠素之訳『唯物史観の改造』であったことなどから、『社会哲学新学説大系』の企画を持ちこんだ編集者を通じての新潮社、高畠、『資本論』改定出版というコンセプトが具体化していったのではないだろうか。

それは新潮社の側だけの事情でもなく、高畠にしても、1の大鐙閣・而立社版に対する「甚だしく不出来に終つたという自意識」があったからで、彼は新潮社の「旧改訳版序文」で、次のように記している。

私の翻訳は、何よりも先づ難解であつた。訳者たる私自身が読んで見ても、原文を対照しないでは意味の通じない処が無限にある。これは一つには、『資本論』の名に脅威されて、私の訳筆が余りに硬くなり過ぎたことにも起因している。現に『資本論』以前に刊行した『資本論解説』の方は、不出来ながらも難解の欠点は比較的少なかつた。『資本論』も『解説』程度にやつてやれぬことはなかつたであらうが、何分にも硬くなつてしまつて日本文の体をなさなくなつた。

これらに加え、高畠は実力不足による「純然たる誤訳」と「誤植その他の不体裁の点」をも挙げている。それゆえに彼にしても「改訳版」に取り組み、「忠実、真摯の二点」に基づく「出来る限り理解し易い日本文の『資本論』」を出すことが念願であり、それが新潮社の出版意向と合致したことになろう。

この「旧改訳版序文」は3の改造社版の「新改訳版」に収録されているもので、2の新潮社版から直接引いたものではない。しかし改造社の序文の「新改訳版について」がわずか五行であることに比べ、新潮社版序文は三ページに及んでいて、高畠の2への思い入れと「念願」の強度が伝わってくる。それゆえに昭和に入って、マルクスの『資本論』は「出来るだけ理解し易い日本文」で読むことが可能になったといえる。

その第一巻「資本の生産工程」、第一篇「商品及び貨幣」、第一章「商品」の「(一)商品の二因子、即ち使用価値と価値(価値の実体と価値の大小)」の冒頭を挙げてみよう。注は省略する。

 資本制生産方法が専ら行はれる社会の富は『尨大なる商品集積』として現はれ、個々の商品はその成素形態として現はれる。故に我々の研究は、商品の分析を以つて始まる。
 商品は先ず、外界の一対象である。即ち、その諸性質に依つて、人類の何等かの種類の欲望を充たす一の物である。この欲望の性質如何、即ちそれが胃腑から起るか、又は空想から起きるかは、問題の上に何等の変化を与へるものではない。又、その物が如何やうにして人類の欲望を充たすか、即ち直接に生活資料として、換言すれば享楽の対象としてか、それとも迂回的に生産機関としてか、それも玆では問題とならない。

マルクスのドイツ語原文は参照していないけれど、見事な訳文として提出されているし、同時代の社会科学書の翻訳水準と比べ、群を抜いていると断言していいような気がする。しかもそれが高畠のようなほとんど独学の在野の人物によってなされたことに感嘆するしかない。

田中真人の評伝『高畠素之』(現代評論社)を読んでみると、高畠は明治四十年に同志社神学校を退学し、その翌年に二十二歳で、群馬で創刊した新聞『東北評論』記事により、新聞紙条例違反で二ヵ月下獄している。そこで英文『資本論』を読み、その後京都で夜学教師を勤めながらドイツ語の学習に全力を注いだとされるが、具体的な語学研鑽については言及されていない。そして売文社に入り、大正八年には『資本論』の翻訳に取りかかり、一方で国家社会主義へと傾倒していく高畠の軌跡は、『資本論』の卓抜な訳業に比して、人間と観念の関係の不可解さを浮かび上がらせているように思える。

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