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古本夜話559 聚精堂、津田敬武『釈迦像の研究』、柳田国男『石神問答』

前回は井上哲次郎『釈迦牟尼伝』だったが、それらの仏教ルネサンスの動向に併走するように、明治四十五年に聚精堂から津田敬武の『釈迦像の研究』が出されている。これは古代から近代に至る釈迦像を収集し、その変遷を比較研究した一書で、具体的にそれらの四十五に及ぶ図像を収録し、釈迦をめぐるイコノロジーといっていいだろう。

津田の「序言」などから推測すると、彼は考古学者の高橋健自の弟子筋に当たり、ドイツの東洋美術研究者たちとも交流のある仏教芸術研究者で、その「序文」を帝室博文館総長股野琢に仰いでいることからすれば、同館に勤務していたか、もしくはその近傍にいたと思われる。また同書は今泉雄作閲となっているが、彼は本連載160でふれた『日本画の知識及鑑定法』の著者であり、津田が今泉に親炙していたとわかる。またこれは蛇足かもしれないけれど、この一冊は津田の亡妻の一周忌の記念として上梓されている。

日本画の知識及鑑定法(復刻)

さてこの『釈迦像の研究』も前篇は「印度アリヤン人の信仰」という第一章から始まり、第二章は「仏教芸術の起源」へと展開され、後篇は日本への伝播とつながり、それなりに興味深い。だがここではその本体ではなく、巻末広告に見える柳田国男の『石神問答』に言及してみたい。それは一ページ広告で、「法学士 柳田国男著『石神問答』」とあり、そのタイトルの下に次のような文言がしたためられている。
[f:id:OdaMitsuo:20160525112837j:image:h120]

 此書は著者が日本経済史研究の副産物にして読書の旁シヤグチ其他石神系統の諸神の特性竝に其民間に於ける信仰に付当代の名流と往復論弁したる書簡集也
 塞神の試走は拝石の風を似て終始し仏に在りては歓喜天の礼祀となり道教と習合しては牛頭天王八王子の説を生じたること及十三塚将軍塚の築造より賽の河原庄塚の俗説に至る迄の変遷大略は説明し得たり今後の研究者に取りては適当の参考書也

この『石神問答』は石神信仰をめぐって、山中共古を始めとして、白鳥庫吉、喜田貞吾、佐々木喜善、伊能嘉矩などとの手紙による問答を収録したものである。柳田は明治四十三年に『石神問答』と『遠野物語』を続けて出していて、後者はほるぷ出版の復刻を入手しているが、前者は古書目録で何回か目にしているけれど、高価なために購入できず、いまだ実物を見ていない。広告には「写真版、アートペーパー、六表木版図画数個挿入」とあり原本を一度手にしてみたいと思う。

それに『遠野物語』のほうは復刻のみならず、岩波文庫新潮文庫の他にも様々な多くの版が出されているが、『石神問答』筑摩書房版〈1〉の三種の全集に収録されているだけである。それもあって柳田の初期の重要な著作だったにもかかわらず、『遠野物語』の背後に隠れがちのものだったのである。だが近年、服部幸雄の『宿神論』(岩波書店)、山本ひろ子の『異神』(平凡社)、中沢新一の『精霊の王』(講談社)が刊行され、あらためて『石神問答』における石神に関する言説の先駆性が浮かび上がってきたのである。

遠野物語(岩波文庫)遠野物語(新潮文庫)柳田国男全集1(『柳田国男全集』1) 宿神論 異神 精霊の王論

しかしここで書いておきたいのはそれらのことではなく、柳田と聚精堂の関係である。実は『遠野物語』と『石神問答』の他にも、同じく明治四十三年に続けて『時代ト農政』を上梓し、この書影は柳田国男研究会編著『柳田国男伝』(三一書房)に掲載されている。それゆえに柳田の文学者、民俗学者、農政学者としての誕生に立ち会った出版社が、田中増蔵を発行者とする聚精堂だったことになる。しかもその聚精堂との出版体験から、柳田も自ら出版者の道をたどるのである。

かつて拙稿「出版者としての柳田国男」(『古本探究3』所収)で、柳田の「予が出版事業」(『定本柳田国男集』第三十三巻所収)における『遠野物語』の純益として三十何冊かを受け取り、この「御陰でいつまでも素人本屋を続けなければならぬ運命を括り付けられた」との証言を引いておいた。それは柳田が後に郷土出版社を設立し、『郷土雑誌』を創刊、「甲寅叢書」「爐邊叢書」などを刊行していくようになるきっかけを意味していた。また同じくそこで、大屋幸世『蒐書日誌』(皓星社)における聚精堂は医学書の吐鳳堂も兼ねていて、次兄の井上通泰がそこから医学書を出していたことから、柳田と聚精堂がつながったのではないかとの推測を紹介しておいた。田中正明も『柳田国男の書物』(岩田書院)において、同様の見解を述べているし、井上と吐鳳堂、聚精堂の関係についても詳述されている。
古本探究3 蒐書日誌 柳田国男の書物『柳田国男の書物』

私もその推測を認めるにやぶさかではないのだが、『石神問答』を含んだ聚精堂の巻末広告を見ていくと、自費出版と考えていい『遠野物語』はともかく、そうではない『石神問答』は少しばかり異なっていると思われる。その広告には石橋臥波『宝船と七福神』、考古学会撰定『古鏡読本』、東海林辰三郎『支那仙人列伝』などもある。それは聚精堂が考古学や帝室博物館との関係が深かったこと、そしてまた『考古学雑誌』の発行所だったことから企画出版されたようにも考えられる。また思いがけない一冊として、ゴーリキーの昇曙夢訳『どん底』も見え、昇が後に出身地の民俗誌も兼ねた『大奄美史』(奄美社)を著わすのは、ほぼ同時に同じ版元から刊行された柳田の『遠野物語』や『石神問答』との出合いに端を発している0のかもしれない。

大奄美史(復刻)

それならば、どうして『遠野物語』や『時代ト農政』の広告が掲載されていないのかということになるのだが、この二冊は幸いなことに『釈迦像の研究』出版の明治四十五年五月には売り切れとなり、『石神問答』だけ在庫があったと見るべきだろう。それは柳田も先の「予が出版事業」の中で、「『石神問答』は「広告もしたのだがこの本が一向に売れて居ない」との言をもらしていることに表われていよう。

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