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古本夜話746 翰林書房『ミネルヴァ』と甲野勇

 前回もふれた寺田和夫の『日本の人類学』の中で、岡書院の『ドルメン』が昭和十年で休刊した後、東大人類学教室の甲野勇がその方針に則り、翰林書房から『ミネルヴァ』を創刊したが、これは同十一年に第十号を出したところで終わってしまったと述べられている。

日本の人類学

 実はこの『ミネルヴァ』の復刻版を入手している。それは昭和六十一年に全一巻として、学生社から復刻されたもので、八木書店の特価本売場に一冊だけ残っていたのを見つけ購入してきたのである。その際には寺田の『日本の人類学』で言及されていたことを失念していて、当時いくつも出されていた考古学関係の同人雑誌だと思い、いずれ読むつもりでの入手だった。
ミネルヴァ

 しかし『日本の人類学』を再読し、あらためて『ミネルヴァ』が東大人類学教室の選科生たちを中心にして創刊された雑誌だと認識するに至った。創刊号の表紙にはローマ神話における教育などの女神像が示され、五〇ページほどではあるが、「原始文化古代工芸/人類民族文化/民俗信仰事物起原」の「総合雑誌」と謳われている。前述したように、編輯兼発行人は甲野勇で、発行所は神田神保町の翰林書房である。そして裏表紙には甲野と同じく選科生の八幡一郎『郷土考古学』、山内清男『日本原始文化』の、翰林書房から近刊予告がなされている。また奥付の隣ページには、人類学や考古学の古書洋書が東條書店の名前で掲載されている。

 この古本屋と見なしていい東條書店は翰林書房と住所が同じであることを考えると、後者は前者の出版部門で、東大人類学教室に出入りしている関係から、『ミネルヴァ』、及び同人の著書の発行所を引き受けたと思われる。ただ甲野が編輯兼発行人となっている事実からすれば、当初製作費などは同人が負担したと考えていいだろう。だが第三号から発行人に東條英治も名前を連ねているので、東條書店が製作費を担うようになっていたと見なせよう。

 創刊号の寄稿者と座談会出席者は十二人で、そのうちの甲野、八幡、山内、宮坂光治は元選科生であり、創刊号の目玉であろう座談会「日本石器時代文化の源流と下限を語る」は甲野、八幡、山内が参加し、それに江上波夫と後藤守一の五人で行われている。江上は本連載718、後藤は同742でふれているが、やはり東大人類学教室の近傍にいたはずである。また寄稿者たちの中で異色なのは、これも同488の江馬修ではあるけれど、当時高山で飛騨考古学会を組織していたことから、「考古学と詩」を寄稿したのであろう。それゆえに『人類学雑誌』が東京人類学会、『ドルメン』が岡書院をバックヤードとしていたように、『ミネルヴァ』は東大人類学教室の選科生たちによって、それも原始文化研究会を立ち上げていた甲野や山内を中心として、編集発行されたと考えてかまわないだろう。

 先の座談会は十三ページに及び、創刊号の三分の一近くを占め、日本の石器時代文化は最初が縄文式、次に弥生式、それから古墳時代に至るという前提から始めて、日本各地で弥生式土器の発見、大陸から青銅器文化の流入が問われ、古墳文化の出土品問題へとも及んでいく。私はそのような当時の考古学状況に通じていないが、大正時代に隆盛し始めた考古学や人類学の進化と展開がうかがわれるように思える。

 この、『ミネルヴァ』は創刊号だけでなく、全号にわたって興味深い論考と言及したい記事などが掲載されているけれども、ここではその導きとなった寺田和夫の『日本の人類学』がふれているふたつの論稿を取り上げておくことにする。ひとつは第五号の八幡一郎「故松村博士と考古学」である。第一回選科生の松村は昭和十一年五月に急逝し、その学恩を巡って、同じ選科生としての八幡が追悼の言葉を手向けている感が漂う。鳥居龍蔵は海外調査に赴くことが多く、実際の遺跡調査に選科生たちを率いていたのは常に松村であり、八幡は大正十五年の姥山貝塚の大発掘を始めとする主な調査を挙げていく。それらは選科生たちの努力と細心な発掘によってもいるが、そのかたわらには松村の計画とバックアップが常に控え、それゆえに可能となったのである。さらに八幡は続けている。

 爾後も機会ある毎に遺跡に臨み、又教室の為に資料収集に尽力されたのであるが、斯く種々なる調査を遂げながらも、常に研究は調査担当者に委して、自ら積極的に其所見を発表されると云ふことは殆んどなかつた。そして常に若い研修者の成長を楽しみつゝも、その逸脱に対しては注意を与へることを怠らなかつたことは実に学ぶべき点だと思ふ。其結果人類学教室に育つた少壮先史学者に対して、人類学教室派の名を似て呼ばれるまでに重要なる業績を学界に提供する素地を博士は作つたのである。

 そしてそれが松村の功績だとし、「この表面に現はれることの少ない最後の点こそ最も重視すべきもの」だと八幡は結んでいる。これまで鳥居に対して悪役の印象が強かった松村は、ここで同じ選科生の弟子によって救われているようにも思われる。

 もうひとつは「ミネルヴァ論争」であり、これは先の創刊号の座談会に端を発している。その中で、宋銭と亀ヶ岡式土器の伴出の例から、奥羽地方の石器時代下限は鎌倉時代まで引き上げるという老学者の見解に対し、山内が「いかがわしいこと」だと発言したことに対し、その本人である喜田貞吉が第三号に「日本石器時代の終末期に就いて」を寄せた。そこで宋銭が石器時代遺跡跡から出た例はいくつもあり、それは岩手の平泉に京都文化が移入していたが、山間においては亀ヶ岡式土器を製作する石器時代人が棲息していたし、それが縄文人(アイヌ人)だったと述べ、東日本には石器時代が継続していたと反論したのである。

 それを受け、山内は第四号に「日本考古学の秩序」を書き、宋銭が亀ヶ岡式土器から出たのは事実だとしても、それを入れたのが同じ時期であるかは別問題で、この種の土器が縄文式遺跡から出たことはないし、日本考古学の進化を無視していると主張した。さらに考古学者と歴史家の論争は続いていくのだが、寺田の言を引けば、この「ミネルヴァ論争」は若手の考古学者たちがめざましい成果をあげていたにもかかわらず、喜田のような碩学も含めて、歴史家はそれを評価していなかった事実を示していよう。


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