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古本夜話749 小寺融吉『郷土民謡舞踊辞典』と市村宏

 『ミネルヴァ』に関してもう一編書いておきたい。といってもそれは『ミネルヴァ』自体ではなく、第五号の裏表紙に掲載された広告の書籍についてである。
ミネルヴァ

 その書籍は小寺融吉の『日本民謡辞典』で、「少部数を限定読者への奉仕」と謳われ、定価四円のところを「特価」二円二〇銭として、神田区神保町の稲垣書店が出広している。そこには藤岡作太郎の『鎌倉室町時代文学史』も同様の「特価」として並んでいる。「当店以外にては特価奉仕は致しません」との断わりも見えているので、稲垣書店はこの二冊の版元から残部を引き取り、「特価」で売り出していると推測できる。
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 この菊判三六〇ページの『日本民謡辞典』は未見であるけれど、その後版というべき同じ著者の『郷土民謡舞踊辞典』は入手している。こちらは新四六判五七二ページで、昭和十六年に冨山房から刊行され、巻末広告にその内容紹介もあるので、それを引いてみる。
郷土民謡舞踊辞典 (『郷土民謡舞踊辞典』復刻)

 近時に於ける郷土学の勃興は真に目覚ましきものである。殊に芸能方面にあつては、ラヂオに劇場に、我等が郷土の歌や踊が次々と紹介されてゐる。数限りもなくあつて、而も整理されてゐなかつたこれらの郷土民謡や舞踊が、本辞典によつて始めて日本六十余州を一望に収めることを得た。更に民謡や舞踊の特殊語や研究書目をも項目に加へ、挿画楽譜を多数添へて光彩陸離、詳細な府県別索引・書名、事物索引等、及囃子詞一覧表等をも加へて斯 道の辞典として間然するところなきを期した。

 これに従うならば、この時代に「郷土学の勃興」とともに、「郷土民謡や舞踊」も発見されたということになろうか。

 小寺はその「序」において、同書が昭和十一年に年来の旧知である壬生書院の富永董によって刊行された『日本民謡辞典』の増補改訂版だと述べている。またそれまで民謡は歌うことと聞くことの喜びを専らとし、これを書きとめ、後世に残すことはほとんど行なわれていなかったこともあり、ここでようやく「日本の郷土舞踊、及び民謡の大半を収め得た」との前書の「序」を再録している。確かに戦後の郡司正勝『日本舞踊辞典』(東京堂出版、昭和五十二年)を見ても、「民俗舞踊のときは、小寺融吉他の『郷土民謡舞踊辞典』などに拠らなければならない」と述べられているので、小寺の辞典が長きにわたって民謡や舞踊の貴重なアーカイブだったとわかる。
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 ただ小寺に関してはその『日本民謡辞典』にも立項がなく、見出せていない。先の「序」によると、小寺は日本の舞踊史研究に長く携わり、日本青年館嘱託として、「郷土舞踊と民間の会」の世話役を務めてきたとある。私が知っている小寺は、昭和二年設立の民俗芸術の会の世話人としてで、その機関紙『民俗芸術』が小寺の編集により、翌年に創刊されている。この民俗芸術の会は柳田国男、今和次郎、早川孝太郎、中山晋平、藤沢衛彦、永田衡吉などによって設立され、永田と小寺が世話人となり、柳田の助力を仰ぎ、その後援によって実現の運びとなったとされる。『民俗芸術』の創刊の言葉も無署名だが、柳田の手になるという。

 柳田国男研究会編著『柳田国男伝』(三一書房)の伝えるところによれば、昭和二年に民俗芸術の会談話会を三回開き、三年に柳田は日本青年館主催第三回郷土民謡舞踊大会で講演をしている。これらの事実を考えると、この時期に小寺は柳田の近傍にいて、民謡や舞踊のための水先案内人の役割を果たしていたようにも思われる。同様に壬生書院の富永も民俗芸術の会の関係者で、それが昭和十年の『日本民謡辞典』へと結実していったのではないだろうか。

 ところが当時のサブカルチャー辞典といっていい壬生書院版は、当然のことながら売れ行きがよくなく、発売わずか半年で、特価本として放出せざるを得なかったのである。ただそうはいっても、類書はないわけだから、その五年後にコンパクトな増補改訂版が出されるに至る。小寺はその「序」において、今回の刊行に際して、冨山房の市村宏への謝辞を記している。

 市村といえば、『ミネルヴァ』第三号に「民俗雑草」という一文を寄せている。それは市村の真宗の小学校時代の体験から始まっている。読本の時間に郡視官の視察があり、前もって自分に当てるといわれていたので、緊張して待っていた。そこに校長をお伴にして真赤な顔をした八字髯、フロックコートの視察官が入ってきた。そして壇上に出て、面白い唄を謡って聞かせると話し、声を張り上げ、次の民謡を歌い出した。それは「浅間山から鬼や尻出して鎌で掻切るやうな屁を垂れた」というものだった。

 意外な人から意外なところで郷土の民謡を聞かされることになったのだが、これは都会において豪快な民謡として説明、紹介されていたことによる。だが信州では山下しの風こそが先祖からの宿敵で、そこから発生したのが風切鎌の民俗であった。それは長い竿の先に鎌で結びつけ、風の季節に高々と立て沖、風を迎え打つもので、二十年前には山村でよく見られた光景だった。それゆえに「鎌で掻切るやうな」とは「大風のやうな」との洒落、ひねった言い回しなのである。

 そうした民俗が滅亡してしまったことから、このような日本語の意味がわからなくなってきている。それを防止するための仕事として民俗研究、民俗学が必要なのだ。それが市村の「民俗雑草」の民謡の大意ということになるが、市村のプロフィルのほうは伝えられていない。だがおそらく国文学者で、『広辞苑』の編集主任を務め、東洋大学教授となった人物だと思われる。

また意外なことに本連載349の石原憲治による「家根裏の神秘」の連載も同号から始まっていることも付記しておく。


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