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古本夜話962 笹森儀助『南嶋探験』

 柳田国男は昭和三十六年に筑摩書房から刊行された『海上の道』(岩波文庫)の中で、笹森儀助の『南島探検』に言及し、次のように述べている。
海上の道

 笹森儀助の『南島探験』という一書は、明治二十六年(一八九三)かに、この人が沖縄県の島々を巡歴して、還ってきてすぐに出版した紀行であるが、何かわけが有って十数年も後に、やや大量に東京の古本屋に出たことがある。自分もそれを買い求めてひとたび精読し、始めて南端の問題の奇異且つ有意義であったことに心づいた。それを読んだという人にはその後幾十人というほど出逢ったが、各自の印象はまだ十分に語りかわすことができずにいる。

 そして柳田の記憶に焼きつけられているのは、笹森が人の止めるのも聞かず、マラリヤの病によって消え去ろうとしている高地の村々を通ったという場面、また他の村では老人が一人いて、どうしようもない窮状を告げているところだと。

 幸いにして、この『南嶋探験』(東喜望校注)は昭和五十七年に平凡社の東洋文庫の二巻本が出されている。サブタイトルは「琉球漫遊記」で、口絵写真には尻ばしょりで帽子をかぶり、傘をさしている笹森の「真像」の掲載がある。これは、『柳田国男伝』にも採用され、「当時の彼のいでたちをよく伝えている」とのキャプションを目にすることができる。

 それはともかく、柳田の記憶を確認してみると、やはり半世紀前の読書であることを告げるように正確ではない。それは明治二十六年七月後半の「西表島巡回」に見出されるもので、「高サ十丈余、土民此辺ヲ恐テ行クモ少ナシ。コレ亦風土病ノ潜伏スルカノ恐レアルヲ以テ也。(中略)丘陵ノ上ハ数多ノ旧屋跡アレ」がそれに該当する。また「有病地ノ故ヲ以テ、来レハ死スルト為ス。故ニ無病地各嶋ノ婦人ニシテ、誰一人来ル者ナシト」。こちらは村の老人の話になるのだろう。それに両者は柳田がいう古見村ではなく、前者は船浦村、後者は高那村、古見村にはそれらしき記述は見当らない。さすがの柳田にしても、明治二十年代に読んだ『南嶋探験』は手元になく、記憶によって書いたのではないだろうか。

 その『南嶋探験』出版史をたどる前に、笹森のプロフィルをラフスケッチしておく。笹森は弘化二年に弘前藩御目付役の家に生まれ、安政四年に父の死去に伴い、家禄を継いで小姓組となり、藩黌稽古館で学んだ。ところが山田登という武芸の師の憂国と農本思想的影響を強く受け、国防の必要性を説いた国政改革意見書を藩主に提出したことで、師弟ともども蟄居の身となる。明治三年に維新の大赦を受け、弘前藩庁に入り、県下の民政、財政の仕事に携わり、中津軽郡長に任ぜられ、弘前病院監督や県立女子師範学校長を兼務し、地方行政官としての手腕を発揮した。

 だが明治十四年には政争に巻きこまれ、辞表を提出し、開拓を進めていた常盤野に農牧社を開業する。以後十年にわたって、その経営に当たり、苦難の中で、政府拝借金の返済目途が立ったことから、二十三年に社長を降り、翌年から『南嶋探験』の「緒言」にある「余ハ草莽ノ士」として、所謂「貧旅行」を試みていく。それらは横浜からの近畿、中国、九州などを一巡した『貧旅行之記』、翌年には『千島探験』に挑むことになる。
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 さてその出版史だが、東喜望の東洋文庫版「解題」によれば、その底本は青森県立図書館特別資料の笹森儀助自筆写本(稿本)である『南嶋探験』乙である。さらに主として写本の『南嶋探験』丙が参照されている。それは明治二十七年に洋本として上梓された『南嶋探験』も同じプロセスをたどったようだが、こちらは「明らかに私家版」だとし、『非売品 南嶋探験』の書影も示され、その体裁も述べられている。菊判五三二ページで、井上毅など三人の漢文「序」や「跋」は東洋文庫版と同じだが、発行所兼編輯人が笹森儀助、印刷所は東京京橋恵愛堂とあり、確かに出版社名の記載はない。

 東は笹森が「これを知己・学会等に配布し」たと述べ、「同書の一、紅色表紙本は天皇への献上へ備えたものだ」と指摘している。だが柳田がいうところの「何かわけが有って十数年後に、やや大量に東京の古本屋に出たことがある」事情は定かでないとされる。しかしこの大正初期と思われる時代に、『南嶋探験』が「やや大量に東京の古本屋に出た」ことによって、柳田が読み、沖縄への関心を高め、そこに伊波普猷の『古琉球』の献本が届き、大正十年の沖縄旅行と『海南小記』(大岡山書店)へと結びついていく。

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 そして翌年には南島談話会が開催され、本格的な南島研究に結びついていく。おそらく南島談話会の人々も、、『南嶋探験』が「やや大量に東京の古本屋に出たこと」によって、柳田と同様に読んだのであろう。私なりにその理由を推理すれば、『南嶋探験』は早すぎる琉球書だったこと、及び出版社を経由しない自費出版であったことも相乗して、取次や書店ルートでの販売はできなかった。それゆえに、かなりの部数がそのまま東京の印刷所の恵愛堂の倉庫に残ってしまった。そうして大正四年に笹森が死去したことにより、それらが古本屋へと「やや大量」に流出してしまったのではないだろうか


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