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古本夜話1124 大日本歌人協会『支那事変歌集 戦地篇』

 前回、松村英一が『田園短歌読本』を編むにあたって、改造社の『新万葉集』と『支那事変歌集 銃後篇』から選出したことにふれておいた。

f:id:OdaMitsuo:20210122105155j:plain:h110(『田園短歌読本』)f:id:OdaMitsuo:20210123125911j:plain:h115(『新万葉集』) f:id:OdaMitsuo:20210123113218j:plain:h115

 実は一年ほど前に、浜松の時代舎で、『支那事変歌集 戦地篇』を入手していて、こちらは昭和十三年に刊行され、同十六年の『銃後篇』に先行するものだった。A5判上製、函入、四一八ページで、タイトルは函背にだけ認められ、そこには大日本歌人協会編とあり、裏函下には「文部省後援」と刷りこまれていた。そこまでは購入の際に目にしていたが、奥付は見ていなかったので、あらためて確認してみると、編纂代表者は松村英一と明記され、彼が大日本歌人協会の理事、会長を務めたことを想起させた。

 幸いなことに、大日本歌人協会は『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを要約してみる。大正三年に初めての歌人団体として歌話会が生まれたが、関東大震災によって消滅し、昭和二年に日本歌人協会が全歌壇の一丸とした集いをめざして結成された。ところが会員選考などに不満が続出し、脱退者も増え、昭和十一年に解散となる。その轍を踏まないために、綿密に会規が作成され、目的として歌壇の向上発展と会員相互の親睦共済が挙げられ、同年に大日本歌人協会が発足する。その事業は和歌史の編纂、年刊歌集の発行などである。会員は旧協会の二百人を中心にしてさらに増加し、年間歌集、及び『支那事変歌集』二巻(『戦地篇』『銃後篇』)が刊行された。その後の昭和十五年の、またしてもの解散、翌年の大日本歌人会結成に至る経緯と事情は省略する。

 さてここで『支那事変歌集 戦地篇』(以下『戦地篇』)に戻る。まず「凡例」が置かれ、昭和十二年七月七日の支那事変は「支那大陸に皇軍を進出され、東洋平和の為の聖戦を展開させる結果となつた」のであり、それは「目覚ましき日本精神の発揮」だと述べられ、次のように続いている。

 一切の文芸がそれを反映して新興の熱情に燃ゆる時、短歌もまた著しき進展を示すに至つた。即ち支那事変に関する戦地銃後二つの作品は、過去の如何なる場合にも嘗て見るを得なかつた夥しき数々となつて現れたことである。支那事変が稀有の大戦であり、日本の国運を賭しての聖戦であると共に、これを契機として生れた作品は、我が和歌史の上に特筆せらるべき特質のものでなければならない。後代に伝ふる為に今にして蒐集せざればやがて散佚の悓がある。大日本歌人協会が、歌壇の協力を得ての衝に当つた理由はこの為である。

 『戦地篇』編纂において、昭和十三年十月までに新聞雑誌に発表されたもの、及び協会に直接送稿されたものに限り、それらの歌数は三万首以上に及んだ。ところがすべてを収録すれば、あまりに大部になってしまうので、戦地詠の代表作を選出し、作者五百名、歌数二千七百余となった。作者は戦地にある将士、応召者、現役入隊者、現地居住者、赤十字看護婦、宣撫班、従軍記者、現地視察者、さらに満州国守備隊、軍病院勤務者などの支那事変の直接関係者で、それらの各方面の作品を集めていることが特色とされる。

 この「凡例」は大日本歌人協会として記され、それらの理事名も挙げれば、北原白秋、土岐善麿、石榑干亦、臼井大翼、川田順、土屋文明、松村英一、前田夕暮、吉植庄亮、依田秋圃、尾山篤二郎、折口信夫である。これらを主たる会員として、昭和十一年に大日本歌人協会が発足したとわかる。

 それから三七〇ページに二千七百首が収録され、それらを読んでいくと、『近代出版史探索Ⅳ』618の日比野士朗の描く『呉淞クリーク』の戦闘に加わった兵士たちが多くいて、その風景やそれにまつわるシーンを詠んだ歌=戦地詠に出会う。例えば、次の一首は「呉淞クリーク付近」として詠まれている。

 近代出版史探索IV  呉淞クリーク/野戦病院 (中公文庫) (中公文庫) 

  敵軍の少年兵が死の際まで防ぎまもりたるはあはれなるかな

 この作者の加藤正雄は巻末の「作者略歴」で見てみると、千葉県出身の銀行員で青垣会員、昭和十二年九月応召、上海派遣軍歩兵軍曹とある。この五百名を収録した「作者略歴」を繰っていると、加藤の「青垣会」に示されているように、ほとんどが「アララギ会」を始めとする結社、もしくは歌誌、同人誌などに属していて、職業は様々だが、実に多くの歌人が支那事変に出征していたことを伝えている。日比野と同じく、彼らの日本への帰還を願わずにはいられないが、この『戦地篇』収録のものが白鳥の歌となってしまった歌人兵士たちもいたにちがいない。

 彼らを送り、案じ、歌ったのが『銃後篇』だと見なせようが、それが刊行されたのはタイムラグのある昭和十六年だった。そこには何らかの事情が秘められているのだろうか。


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