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古本夜話1132 気賀林一『編集五十年』と『頭註国訳本草綱目』補遺

 二回ほど飛んでしまったが、ようやく気賀林一『編集五十年』(医道の日本社、昭和58年)が出てきたので、『頭註国訳本草綱目』にまつわる補遺編を書いておきたい。この気賀の著書の版元は月刊『漢方の臨床』や『医道の日本』を刊行する横須賀市の漢方雑誌社であり、内容も春陽堂の『本草』と『漢方と漢薬』という馴染みの薄い月刊雑誌の編集時代に大半が割かれているために、編集者の回想としての言及を見ていない。しかし気賀は春陽堂の特異な編集者で、しかも『頭註国訳本草綱目』の担当者だったのだ。

国訳本草綱目〈第1,3-5,8-15冊〉―頭註 (昭和4至9年) (『頭註国訳本草綱目』)医道の日本 2020年7月号 (これからの鍼灸を考える)   

 気賀は昭和六年に慶応義塾大学英文科を卒業し、春陽堂に入社する。それは本探索1098の『明治大正文学全集』の成功によって、春陽堂が東京駅八重洲口前に六階のビルを建てた時代であった。彼は回想している。「その頃は、著者もいろいろな方が入れ替り立ち替り社へ出入りされて、(中略)春陽堂がもうかると同時に著者の方も印税、印税でふところ具合がたいへん温かく、お互いに和気藹々たる空気がみなぎ」り、印刷屋や製本屋なども含めて、「まるで春陽堂は銀行のような存在であった」と。まさに昭和円本バブル時代を迎えていたのである。

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 そうした中にあって、「後世に残るような意義ある出版」として、第一に企画され、昭和四年に着手されたのが「世紀の難出版」とまでいわれていた『頭註国訳本草綱目』だった。やはり気賀の証言を引いてみる。

 いくら採算を度外視した企画とは申しましても、この出版については賛否両論相半ばしまして会議で容易に決まりませんでしたが、漢学者鈴木真海先生の自信のあるつよい一言で出版に踏み切ったのでございます。
 (中略)それに要する諸経費を計算しますと、じつに莫大な出版費がかかり、常識では考えられないほどの額にのぼりますので、もし二百や三百しか売れないということになりますと、出版社の命とりになりかねない無謀に近い企画だったからでございます。

 ところが新聞の予約募集広告を出すと、たちまち四千部の申し込みがあり、第一巻刊行時には六千部に達していた。「出版はまことに水ものと申しますが、この国訳本草綱目の出版などではまさに大ばくちを打ったようなもの」だったといえよう。その予約者たちはやはり医師や薬剤師が圧倒的に多かったけれど、中国文化史研究者、史実家、好事家に加えて、吉川英治や直木三十五、画家の津田青楓といった思いがけない人たちもいたという。この津田は『頭註国訳本草綱目』の装幀者でもあった。

 『頭註国訳本草綱目』の編集は当初五、六人だったが、刊行が進むにつれ、気賀が一人で担当することになる。そして毎日のように国訳者の鈴木真海、考定者の白井光次郎や牧野冨太郎の自宅に通ったことから、彼らに関する興味深い様々なエピソードなども語られている。だがここでは前々回「駒込桔梗艸盧」に住む国訳者としか記せなかった鈴木のプロフィルだけを浮かび上がらせてみたい。気賀はその写真を示し、その後の交際も含め、鈴木の生涯に寄り添っていたと見受けられるからだし、気賀の明らかな間違いは訂正しながら、それをたどってみる。

 鈴木真海は明治二十一年福島県東白河の機屋に生まれ、小学校卒業後、家を飛び出し、白河の長寿院の住職長野普観師に弟子入りをした。この小僧時代に猛勉強し、かたっぱしから仏典を読み、また塾に通って漢学も学んだ。その後、この住職について越後の慈光寺に行き、そこで立職という僧侶の資格を得たが、明治四十年、十九歳で上京し、語学、印度哲学、西洋哲学などを独学した。あちこちの寺をわたり歩いた放浪時代だったけれど、向学心は最も旺盛であった。

 それから新聞記者時代が始まり、毎夕新聞社、新潟時事新報社、毎日新聞社と移り、従軍記者などの活躍をしたようで、毎夕新聞社で『本草綱目』原本を架蔵していた澁川玄耳の知遇を得たと思われるし、主筆でもあり、吉川英治は部下だったとされる。この新聞記者時代の後に、病気の夫人とともに楽でない生活の中で、『頭註国訳本草綱目』に取りかかり、原稿料の前借りを限界まで重ねていた。そこに気賀は毎日のように「お百度をふんでいた」のである。その仕事ぶりについて、「先生は漢文を読むに返るよみ方はなされないで頭から棒よみによみ下され、そのスピードも四百字詰原稿用紙七十枚を一日に訳された」という記録があると述べている。ここには『近代出版史探索』104などの『世界聖典全集』の翻訳者たちと共通するイメージが生じるし、鈴木もまた近代出版界のトリックスター的独学者に位置づけられよう。

近代出版史探索   世界聖典全集 (前輯 第7巻) (『世界聖典全集』)

 しかし鈴木は四十歳を境として仏法に再び戻り、白河の長寿院住職を経て関川寺へ映る。この関川時代が学識的に最も円熟して意気軒高で、最後は新潟慈光寺住職で終わった。慈光寺は非常に格式が高く、永平寺と同格で、鈴木の入山式は界隈あげての厳粛なものだったが、鈴木は高位の色衣ではなく、粗末な黒染の衣のままで入山したという。

 気賀にとっても、この真海との出会いは決定的であった。それは彼自身に語らせよう。

 私はこの「本草綱目」が御縁で鈴木先生との交りは次第に深まってまいりまして、この「本草綱目」が終わりますと、月刊雑誌「本草」の編集に移り、さらに「漢方と漢薬」誌、さらに現在の「漢方の臨床」誌の編集へとつながりまして、以来かれこれ四十五年、私が妙な畑ちがいの方向に足を踏み込んでしまいましたのも、動機はといえば、「本草綱目」の出版であり、鈴木真海先生との出会いということが、大げさに申せば、私の生涯の岐れ道だったのでございます。

 それは春陽堂にしても同様で、『頭註国訳本草綱目』がなければ、その後の一連の企画、『本草』や『漢方と漢薬』といった「畑ちがい」の雑誌創刊はなかったのである。


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