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古本夜話1139 齋藤秀三郎『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』と『齋藤和英大辞典』

 漢文書出版の系譜をたどる中に、英語文法書や辞典を挿入して違和感を与えるかもしれないけれど、そうしたダブルイメージこそが近代出版の現実でもあった。またそこには思いがけない出版経済のメカニズムすらも潜んでいたのではないかとも推測されるので、そのことにふれてみたい。

 前回、齋藤秀三郎の『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』を挙げたが、その巻末一ページに「尋常中学校幷商業学校用英語会話文法広告」の大見出しで、内容紹介がなされ、「此書ハ著者カ夙ニ本邦人ノ正則ニ英語ヲ学習スルノ困難ナルト共ニ良書ナキヲ深慨スルノ余リ編著セラレタルモノナリ」とある。紀田順一郎は「英語の鬼がつくった驚異の辞典」(『日本博覧人物史』所収、ジャストシステム)において、『齋藤和英大辞典』にスポットを当てているが、先の英語文法書こそが彼の処女作であった。紀田はそれを次のように始めている。

f:id:OdaMitsuo:20210318151732j:plain:h115(『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』)f:id:OdaMitsuo:20210317205310j:plain:h115 f:id:OdaMitsuo:20210106174611j:plain:h115

 明治二〇年代から三〇年代にかけて、東京の二大私立英学校といえばイーストレーキの創設した国民英学会と齋藤秀三郎(一八六八~一九二九)の創立した正則英語学校で、この二校の並び建っている神田錦町界隈は夕刻になると学生の熱気であふれ返るようだった。商店の店員や官庁のボーイなどが押しかけるので、それを当て込んだミルクホールやレストランも大いに繁盛していた。

 イーストレーキと英和辞典に関しては拙稿「三省堂『ウェブスター氏新刊大辞典和訳辞彙』と教科書流通ルート」(『古本屋散策』所収)で言及し、国民英学会と正則英語学校による英語普及の多大な貢献にもふれている。それは出版界においても同様で、本探索1134の国民文庫刊行会の鶴田久作が国民英学会出身であることを既述したばかりだ。正則英語学校の場合も例を挙げれば、『近代出版史探索Ⅲ』445などの三笠書房の竹内道之助がその出身で、この両校に在学した出版関係者は彼らの他にも多く見出されるはずだ。だがそれは稿をあらためることにして、ここでは正則英語学校と齋藤のことにしぼりたい。

古本屋散策 近代出版史探索III

 先の英語文法書と学校名に見られる「正則」とは、当時の英語教育が漢文的な直訳、つまり「変則」的だったことに対し、齋藤英語の特徴は一読して日本語らしい意味を会得することをめざしていたので、本当の英語という意味で「正則」を使ったとされる。その「正則」に基づき、編まれた『齋藤和英大辞典』にはそれも立項されているので引いてみる。

 Seisoku(正則)【名】A regular system : (=no)regular ; systematic. ・英語を正則に研究する to make a regular study of English―make a systematic study of English

 これだけでは見えてこないけれど、『同辞典』は日本語の慣用句、ことわざ、和歌、俳句、端唄、都々逸などの用例をふんだんに取り入れた日本人の英語というべきだろう。それゆえに、これは紀田も挙げているGisei(犠牲)の用例としての「自国語を犠牲にして英語を学んだI learned my English at the expense of my Japanese.」は当てはまらないことになる。

 ところでこの『齋藤和英大辞典』だが、紀田はカラー書影入り、厚さ一四センチ、四六四〇ページに及ぶ、昭和三年刊行の日英社版を紹介している。これは齋藤が処女作を上梓した興文社と喧嘩別れしたことから、自らが日英社という版元を興して刊行したとされる一冊で、一度目にしたいと思っているだが、長きにわたって未見のままである。それでも幸いなことに、昭和五十四年にほぼ半世紀ぶりで、名著普及会から覆刻版が出され、手元にあるのは同五十八年第六刷である。これは日英社版の四ページ文を一ページにまとめ、版面を七〇パーセントに縮刷したものだが、あらためて英語学者ではなく、出版者しての齋藤と日英社を支えたのは誰だったかが気にかかる。

齋藤和英大辞典 普及版

 これも紀田によれば、明治二十九年の正則英語学校の創設にあたって、そのスポンサーとなったのは興文社の社長鹿島長次郎だったとされる。前回鹿島の名前を『ENGLISH CONVERSATION-GRAMMAR』の奥付発行者として見たばかりだが、その指摘によってひとつの疑問が解けたように思われるので、そのことを書きとめておきたい。実はその同じ奥付の版権所有のところに「石川印証」という検印が貼られ、その上に解読不明の大きな印が打たれている。これは齋藤の「版権所有」ではなく、石川なる人物にそれがあることを示している。

 それならば、石川とは誰かというと、これも拙稿「藤井誠治郎『回顧五十年』と興文社」(『古本屋散策』所収)でふれておいた興文社のオーナーの石川家をさしているのではないだろうか。藤井によれば、三代目石川治兵衛は教科書出版で業績を上げたが、惜しくも夭折し、その後はすず未亡人の経営となった。彼女はその支配人の鹿島長次郎と再婚するが、鹿島は興文社の代表、つまり発行者に納まったものの、石川家の養子に入ることはできなかったという。

 とすれば、興文社の実質的オーナーは相変わらず石川家のままであり、齋藤の正則英語学校設立資金を用意したのは石川家で、その際に先の版権も融資の代わりに譲渡されたと考えるのが妥当のようにも思われる。ただ鹿島が発行者=代表者だったことから、彼がスポンサーだとの風評が広まり、それが事実のようにして伝えられていったのだろう。おそらくそうした齋藤の処女作の出版事情、その後の印税問題、それらの風評などが重なり、齋藤は興文社と喧嘩別れすることになったのではないだろうか。


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