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古本夜話1156 南原実『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』と征矢野晃雄訳『黎明』

 確か最初にヤコブ・ベーメの名前を知ったのは、コリン・ウィルソンの『宗教と反抗人』(中村保男訳、紀伊國屋書店、昭和四十三年)で、その第一章がベーメに当てられていたからだ。だがその内容に関してはベーメが靴屋で、著者のウィルソンも靴屋の息子ということしか記憶に残らなかった。

宗教と反抗人 (1965年)

 その後あらためてベーメの戦前の翻訳を教えられたのは、由良君美の「ベーメとブレイク」(『椿説泰西浪曼派文学講義』所収、青土社、同四十七年)においてだった。そこで由良は大正十年に大村書店から征矢野晃雄訳でベーメの『黎明』が刊行され、それは『近代出版史探索Ⅲ』247の鈴木大拙訳のスエデンボルグ『天界と地獄』と並んで、戦前の神秘主義やオカルティズムの必須の翻訳文献だったと語っていた。しかし由良にしても、前者は二十年前に友人の書狼に盗み去られて以来、二度と入手していない一冊だったのである。

椿説泰西浪曼派文学談義 (1972年) (ユリイカ叢書) f:id:OdaMitsuo:20210520172549j:plain:h120(大村書店版『黎明』)

 そこで由良はベーメの肖像を示し、十七世紀のドイツの「大神秘思想家」のプロフィル、及びイギリスやロシアへの絶大な影響を指摘し、とりわけブレイク『天国と地獄の結婚』への深い浸透を伝えていた。だが『黎明』に関しては、私も『近代出版史探索Ⅲ』433で大村書店のことを書いているけれども、古本屋で見かけることはできず、それを読んだのは五年ほどたった昭和五十一年になってからだった。牧神社から『黎明(アウロラ)』復刻とともに別巻の南原実『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』が出されたことによっている。
:黎明(アウロラ (牧神社版『黎明』) f:id:OdaMitsuo:20210520171538j:plain:h110 (『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』)

 この復刻によって、『黎明』が大村書店の「哲学名著叢書」の一冊として、大正十年に菊判上製四四九ページ、定価四円で刊行されたことを確認したのである。そしてベーメがノヴァーリスを始めとするドイツロマン派の人々、ヘーゲルやシェリングなどの哲学者たちにも大きな影響を及ぼしたことも。『黎明』については私見をはさむより、南原の『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』に訳者や出版者名も挙げた簡にして要を得た紹介=「絵とき」があるので、それを引いてみる。

 『黎明』は、(1)神秘体験をうけた若いベーメの心の動きが、そのまま詩的な言葉となってあらわれ出た文学的手記として、(2)人間・宇宙・神の重なり合いという、ルネッサンス自然哲学・錬金術のテーマを、みずからの神秘体験にもとづいて追及した作品として、(3)その次代に悪魔の跳梁をみて、おののき、悪魔を弾劾する預言者ベーメの姿を、生々とうつし出す、政治・社会史的にも興味ある作品として、独自の魅力に溢れていることにはかわりない。新しいキリストの教えは、預言者ルターによって姿をあらわしたが、終末の時代の真の救いは、宇宙・自然をも取り込んだ次元で、はじめて成就されるのであって、その救いは、神学者ルターではなく、神秘体験のうちに宇宙万物の行く末を見た「神のマギアの子供」ベーメを得て、はじめてあらわになるのであった。こうしたベーメの姿勢を伝える『黎明』の価値を征矢野晃雄氏は、いまからすでに五十年以上もまえに見抜き、『黎明』の日本語訳という困難な仕事をなしとげ、当時の大村書店店主・大村郡次郎氏と交渉し、『黎明』と題し、その哲学名著叢書の一冊として出版した。

 また『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』の第Ⅱ部の「パノラマ」は南原による『黎明』の「解釈」で、それは「まだ全くその姿をあらわさない未知の領域の問題をうちに含む複雑で型破りのベーメの世界」へのひとつの手がかりとなっている。

 四方田犬彦は『先生とわたし』(新潮社)において、由良が牧神社に「参謀格のような形で迎え入れられ」、「牧神社が健在である期間は幸福そうに見えた」と述べている。私も拙稿「牧神社と菅原孝雄『本の透視図』」(『古本屋散策』所収)などで牧神社の菅原孝雄と由良の関係にふれているが、由良と菅原は昭和五十六年の平井呈一の葬儀をきっかけとし、由良は牧神社の「参謀格」となり、『ノヴァーリス全集』の編纂、『黎明』や『奢灞都』の復刻企画を提案したのであろう。

先生とわたし (新潮文庫) 本の透視図: その過去と未来 (『本の透視図』)

 私は「四方田犬彦『先生とわたし』と由良君美」(同前)で、ベーメの『黎明』の復刻は本郷の宗教学科へと向かった四方田への贈り物だったのではないかと書いた。それに南原こそは宗教学科において、ミスティックなゼミを開いていた人物だったからだ。すると『古本屋散策』刊行後、四方田から私信が届き、由良と南原は駒場と本郷に分かれていたが、お互いに敬愛し合っていた関係であったと記されていた。

 その事実から考えれば、『黎明』の復刻にあたって、由良が南原に別巻解説としての『ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元』を慫慂し、牧神社からの二冊セットでの刊行となったと思われる。しかしその由良も南原もすでに鬼籍に入り、荒俣宏『妖怪少年の日々 アラマタ自伝』(KADOKAWA)によれば、近年菅原も亡くなったと伝えられている。だが『黎明』は残され、またあらたなる読解に向かって開かれているように思える。

妖怪少年の日々 アラマタ自伝


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