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古本夜話1155 筑摩書房とベルトラム『ニーチェ』

 本探索1149の茅野蕭々『独逸浪漫主義』と同じく、高橋巖が『ヨーロッパの闇と光』で言及しているベルトラムの『ニーチェ』は筑摩書房から浅井真男訳で、昭和十六年十一月に刊行されている。私の手許にあるのは十七年二月の再版で、太平洋戦争が迫りつつある中で初版が出され、その開戦後の大東亜戦争下において、版を重ねたことになる。

 獨逸浪漫主義(『独逸浪漫主義』)ヨーロッパの闇と光 (1977年)  f:id:OdaMitsuo:20210517223304j:plain:h117 

 この機械函入菊判、六八六ページの翻訳哲学書の初版部数は不明だが、五円五十銭の高定価にもかかわらず、たちまち売り切れ、再版に続いて、さらなる重版も推測される。その函はともかく、本体の造本と装幀は戦時下を反映させていないシックな佇まいである。一元取次としての国策会社日配も誕生したばかりで、流通と販売もまだ安定していなかったと考えられるし、それは筑摩書房も同様であった。それを示すために、『出版人物事典』から創業者の古田晁の立項を引いてみよう。

 [古田晁ふるた・あきら]一九〇六~一九七三(明治三九~昭和四八)筑摩書房創業者。長野県生れ。東大倫理科卒。渡米して父の経営する日光照会に勤務するが、一九四〇年(昭和一五)筑摩書房を創業。社名は松本中学の同級生で、創業に協力、のち取締役になった臼井吉見が郷里の筑摩にちなんで命名。『中野重治随筆抄』、中村光夫『フローベルとモーパッサン』、宇野浩二『文芸三昧』でスタートした。四四年(昭和一九)戦時企業整備で数社と統合、戦災にあうが復興、四六年(昭和二一)総合雑誌『展望』を創刊、五三年(昭和二八)には『現代日本文学全集』全五四巻の刊行を開始。多くの文学全集や多岐にわたる全集やシリーズなどを刊行、熱心な筑摩ファンを獲得した。巨漢で酒豪として知られた。『回想の古田晁』、野原一夫『含蓄の人/回想の古田晁』が出版された。

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 それらの創業本三冊に加えて、『ニーチェ』の巻末広告には青山二郎装函入のヴァレリイ『ドガに就て』(吉田健一訳)、小林秀雄、大岡昇平、中原中也序『富永太郎詩集』など十三冊が並び、前者は好評十二版とあり、こちらも戦時下の出版とは思われないほどだ。

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 そうした筑摩書房の創業時を詳細に伝えているのは、古田からの依頼で書き下ろされた和田芳恵『筑摩書房の三十年』(昭和四十五年)である。同書によって当時の筑摩書房の住所が京橋区銀座に置かれていた事情が判明する。また田野勲の評伝『青山二郎』(ミネルヴァ書房)に古田は出てこないけれど、れっきとした「青山学院」の生徒で、筑摩書房のマークが青山のデザインであること、それゆえに創業時の装幀の多くが青山の手になることや、『富永太郎詩集』の由来などもわかる。青山装幀の『ドガに就て』に関しては初版二千部だったが、一万部近く売れ、これが昭和十七年の『ヴァレリイ全集』へと結実し、戦時下状況よって全十七巻のうち五冊が出たけで中絶してしまったが、やはり各一万部が売れたという。

 筑摩書房の三十年 1940-1970 (筑摩選書) 青山二郎:物は一眼 人は一口 (ミネルヴァ日本評伝選 210)  ヴァレリイ全集 第6巻  マラルメ論叢 筑摩書房 昭18

 ところで『ニーチェ』のほうだが、この企画は編集顧問の唐木順三から出され、装幀は春陽堂営業部出身で製作を受け持っていた和田英雄が手がけたようで、社内装幀本はすべて彼が担当していた。著者のベルトラムは一八八四年生まれのドイツの詩人、文学史家として、詩人のゲオルグの影響下にヨーロッパにおけるドイツ精神の意義を探求し、トーマス・マンとも親交があったが、戦後ナチス協力を疑われ、晩年は孤独うちに死んだとされる。

 ベルトラムの『ニーチェ』の原書は一九一八年=大正七年の出版で、ニーチェ研究、及び現代の精神史的著作の名著に位置づけられ、筑摩書房版の数年前に前半だけの翻訳が刊行されたようだが、絶版となり、ここにようやく全訳が上梓となった。現在の地点で読んでみても、ドイツロマン派を基層としての「在りしものは悉くただ比喩にすぎない」と始まる『ニーチェ』が、当時の読者に共鳴を与えたことは想像に難くない。戦後も「筑摩叢書」としてロングセラーだったことは、ベルトラムの著書とその翻訳の位相を伝えていよう。
 
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 とりわけ高橋巖のように、戦後を迎え、人間存在としての自己の意義を確かめることができる共同体の不在に直面した読者にとって、あらためてインパクトを伴い、迫ってきたし、彼はそれを次のように記している。

 戦後、私に全然別の見方を教えてくれたのは、エルンスト・ベルトラムの『ニーチェ』の最後の章、「エレウシス」だった。特に「秘儀」の本質が論じられ、孤立した人間にとっては、たとえそれが精神的にもっともすぐれた者であっても、いかなる秘儀も存在しない。したがってその人間はギリシア的意味におけるもっとも深刻な「神に見捨てられた状態」にある、というその前半の論述を浅井真男氏訳のすぐれた訳で読んだとき、それは啓示のように私の心を明るく照らしてくれた。

 そしてそこから共同体という「故郷を失ったものがそこに属することによって自己の個性が支えられ、確かめられるような場所」が求められ始め、高橋の場合、『近代出版史探索Ⅳ』666のルドルフ・シュタイナーの世界へ向かうことになるのである。


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