前回、三教書院の「いてふ本」を取り上げたからには、籾山書店の「胡蝶本」にもふれておくべきだろう。前者は袖珍文庫の国文学叢書、後者は文芸書の代表的叢書で、そのアイテムはまったく異なっているけれど、いずれも明治末期から大正にかけての刊行であり、同時代の出版物といえるからである。
籾山書店と籾山仁三郎と「胡蝶本」、永井荷風との関係についてはすでに『近代出版史探索Ⅱ』219で言及しているが、具体的に「胡蝶本」に関しては書いていないので、ここではそれを試みてみたい。ただそうはいっても、紅野敏郎の『大正期の文芸叢書』に記されているように、橋口五葉の蝶を一面に散らした華麗な装飾にちなんで称された「胡蝶本」は、コレクターも多く、人口に膾炙している。同書の「編成も『胡蝶本』をトップに据えてもよかった」とされるほどの著名な美本叢書なので、私などの門外漢にとっては縁遠いシリーズに他ならない。
それに加えて、古本屋で出会っていないこともあって、一冊も入手していないのだが、近代文学館複刻の森林太郎『青年』と谷崎潤一郎『刺青』は所持していて、四六判、角背、函入、華麗な装幀を確認できる。しかし紅野のいうところによれば、華麗だが、角背で造本は堅固でないので、保存状態のよい本は少ないようだ。また「胡蝶本」は通称ゆえに、『日本近代文学大事典』第六巻にも掲載は見られない。このような機会だから、紅野の著書により、明治四十四年から大正二年にかけて刊行された「胡蝶本」全二十四冊を抽出してみよう。
(『青年』、複刻版)
1 泉鏡花 | 『三味線堀』 |
2 永井荷風 | 『すみた(ママ)川』 |
3 正宗白鳥 | 『微光』 |
4 永井荷風 | 『牡丹の客』 |
5 〃 | 『紅茶の後』 |
6 谷崎潤一郎 | 『刺青』 |
7 久保田万太郎 | 『浅草』 |
8 森鴎外 | 『みれん』 |
9 長田幹彦 | 『澪』 |
10 森麟太郎 | 『我一幕物』 |
11永井荷風 | 『新橋夜話』 |
12 水上滝太郎 | 『処女作』 |
13 長田幹彦 | 『尼僧』 |
14 岡田八千代 | 『絵の具箱』 |
15 小山内薫 | 『大川端』 |
16 久保田万太郎 | 『雪』 |
17 谷崎潤一郎 | 『悪魔』 |
18 水上滝太郎 | 『その春の頃』 |
19 森林太郎 | 『青年』 |
20 松本泰 | 『天鵞絨』 |
21 平出修 | 『畜生道』 |
22 小山内薫 | 『鷽(うそ)』 |
23 森林太郎 | 『新一幕物』 |
24 吉井勇 | 『恋愛小品』 |
(『新一幕物』)
このような作家たちのセレクトは籾山が慶応義塾大学理財科出身で、明治四十三年創刊の『三田文学』編集兼発行人が永井壮吉=荷風、発行は三田文学会だが、発売所は籾山書店が担っていたことによっている。『三田文学』は反自然主義を標榜していたことから、森鷗外を始めとして、小山内薫、谷崎潤一郎、泉鏡花、吉井勇たちも協力し、それに久保田万太郎、水上滝太郎、松本泰などの慶応出身者も作品を発表するようになっていた。しかも創刊から三、四年は五千部を超える異例の売れ行きだったと伝えられている。そうした『三田文学』をめぐる出版、編集、作品掲載といった状況の中で、「胡蝶本」は必然的に企画され、『三田文学』と同じく、その装幀造本と相俟って、まさに大正期の代表的文芸叢書として売れ行きは順調だったのではないだろうか。
そのことをうかがわせている記載が6の『刺青』と19の『青年』に見えているので、それらにふれてみる。明治四十四年刊行の『刺青』は発行所を京橋区築地の籾山書店としているが、そこには並んで京都市上京区の住所も記され、籾山書店に京都支店が存在していたことを示している。それは大正二年の『青年』も同様の記載であり、こちらは京橋区銀座に対して大阪市東区で、大正に入って京都支店が大阪支店へと移行したことを伝えている。ちなみに振替貯金口座番号は同じで、営業的にも明治四十四年から大正二年までの京阪神支店が稼働していた事実を物語るものである。
この事実を『三田文学』の五千部の売れ行きと雑誌状況を絡めて考えてみる。明治二十年代に成立した出版社・取次・書店という近代出版流通システムは、三十年代の鉄道網の整備とともに雑誌の時代が相乗し、成長し続け、明治末期には近代書店が全国各地に出現し、その数は三千店に及んだ。そうした出版流通インフラ状況の中で、明治三十九年に島崎藤村の自費出版としての『破戒』は出版されたのであり、拙稿「『破戒』のなかの信州の書店」(『書店の近代』所収)において、この作品がそれらの事実を書きこんでいることを指摘しておいた。
このような近代出版流通システムの成長を背景として、「胡蝶本」を始めとする九十種近い紅野の『大正期の文芸叢書』の出版が花開いたといえるのではないだろうか。その象徴的例として、やはり拙稿で「京都・西川誠光堂」(同前)を挙げておいた。そこで明治三十年代には京都にも一大取次としての東枝書店が成長し、西川誠光堂もまた東枝書店を取次として、大正時代には『白樺』や『青踏』などのリトルマガジンや社会主義文献、春陽堂や新潮社の文芸書、岩波書店特約店としての販売によって、多くの読者の集うところとなったことを既述しておいた。
またこれも拙稿「梶井基次郎と京都丸善」(同前)に記したように、『檸檬』の物語も大正時代に成立したのである。 そうした取次と書店という流通販売インフラを背景として、『刺青』や『青年』などの「胡蝶本」、『破戒』や『檸檬』も出版されていた。その東枝書店の創業者が『出版人物事典』に立項されているので、ここに示す。
[東枝吉兵衛 とうし・きちべえ]一八四八~一九三四(嘉永元~昭和九)東枝書店創業者、京都書籍商組合組合長。盛岡市生れ。二〇歳で京都に出て雑誌『官報全書』の取次販売をはじめ、一八八〇年(明治二二)東枝書店の屋号を掲げ、一般書籍、雑誌、教科書や『大阪毎日新聞』の売捌きを行う。一九一九年(大正八)株式組織に改め、社長に就任、出版・取次販売に専念した。〇二年(明治三五)には京都書籍商組合(のち、京都書籍雑誌商組合)の二代目組長に就任、二六年(大正一五)まで前後二〇数年、組合の経営に尽くし、ことに定価販売の実施に尽力した。二四年(大正一三)東宮(昭和天皇)御成婚を記念して「昭和図書館」建設に組合の建設委員長となり、二八年(昭和三)竣工開館、館長に就任した。京都市会議員をはじめ、多くの要職についた。
この京阪神における出版流通システムの成長と隆盛に合わせるようにして、『三田文学』の創刊があり、「胡蝶本」の出版も企画され、そのために京都支店や大阪支店も設置されたのではないだろうか。そこには籾山の慶応義塾の理財科の人脈、もしくはその前身の俳書堂関係者もいたように思われる。それもあるので、もう一編、俳書堂のことを書いてみるつもりだ。
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