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古本夜話1164 高浜虚子、俳書堂、『ホトトギス』

 俳書堂編『俳句の研究』と題する菊判上製、五六八ページ、一円五十銭の一冊が手元にあるけれど、とても疲れた裸本で、背文字はほとんど読める状態にはない。

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 冒頭の俳書堂主人が記す「凡例」によれば、本書は明治三十一年十月の東京版『ホトトギス』第二巻第一号から、同三十八年七月までの俳句に関する諸篇を結集した一書で、「是れ俳書堂が今日を以て一ト先づ俳句に関する諸篇の結集を行ふに最も適したる時期なりと信じ本書を編纂したる所以なり」とある。ただしすでに単行本化されているものは除くと。それらは主として高浜虚子、内藤鳴雪、河東碧梧桐などによる「俳句総論」「一句の研究」「一家の研究「「俳論」「俳評」の五篇という構成となっている。

 奥付表記は明治四十年七月発行、四十一年三月再版、編輯兼発行者は籾山仁三郎、著作権所有の部分には籾山の名前の下に押された同じ印が打たれているので、著作権は高浜たちにはなく、発行所として俳書堂/籾山書店を名乗っている籾山に移されているとわかる。

 それに続いて、巻末広告には中村楽天『明治の俳風』、正岡子規『俳諧大要』『俳句問答』、『竹の里歌(子規歌集)』を始めとする「子規遺稿」シリーズ、同じく子規、碧梧桐、虚子共選『春夏秋冬全四冊』、虚子『俳諧馬の糞』、碧梧桐『俳話蚊帳釣草』『蕪村俳句全書』全九冊、俳書堂主人『連句入門』『連句便覧』を含む「俳書堂文庫」、俳書堂篇『袖珍俳句季寄せ』『季寄せを兼ねる俳諧手帳』などの俳書が掲載れている。それらはまさに俳書堂の出版物にふさわしく、まだ「胡蝶本」の籾山書店の気配は感じられない。

f:id:OdaMitsuo:20210628204009j:plain:h120 (『竹の里歌』)f:id:OdaMitsuo:20210628172401j:plain:h120(『連句入門』)

 これらは入手していないし、奥付も見ていないので断定はできないが、『俳句の研究』の例からすれば、著作権は同じく籾山に譲渡されていると見なすべきだろう。俳書堂は明治三十四年に創設され、三十八年に籾山に譲られたとされている。だが虚子は『俳句の五十年』や『虚子自伝』(いずれも『定本高浜虚子全集』第十三巻所収、毎日新聞社)において、俳書堂を手離した事情を明確に語っていないので、それらの経緯を推測してみる。

定本高浜虚子全集〈第13巻〉自伝・回想集 (1973年)

 『ホトトギス』は虚子が三十一年に東京版第一号を刊行した際には初版千五百部がたちまち売り切れ、五百部重版したとか、三十八年からの漱石『吾輩は猫である』の連載は好評で、発行部数は八千部に達したとされ、『ホトトギス』は順風満帆に営まれてきたようなイメージがある。だが実際にはそうではなかったし、虚子もそのことを『虚子自伝』で、「ホトトギス発行」と題して、正直に告白している。

 明治三十一年から三十五年までは、私としては相当に苦しい時代であつたともいへるのであります。実際やつてゐる中に、子規の病気はだんゞゝ重くなり、私もよく病気をする。その間人に助けて貰つたり、経費が足りなくなつたり、そこでもう一つ雑誌以外の俳書出版をしようとしましたが、それも素人の悲しさで売捌の方法が判らず、残本が沢山できる、長男がまた生れる、家系がいよゝゝ苦しくなる、借金をする。虚子は商売に熱心になつて俳句がまづくなつてといふ非難が起つてくる。しまひには子規までが、「病床六尺」「仰臥漫録」であてこする、といつたやうな病態でありました。然しまあどうかかうか発行をつゞけてまゐりました。

 このことは『俳句の五十年』でも、『ホトトギス』の経営は困難となり、「その急場を救ふ為に、俳書の出版を思ひ立つてやつてみましたが、素人の悲しさで、それは思ふやうに参りませんでした。どうも良い結果を得ませんでした。それで遂にその出版の仕事だけを他の者に譲りました」と述べられている。

 それが虚子時代の俳書堂で、前掲の『春夏秋冬』や『蕪村俳句全書』などが刊行されたことはわかるが、この二つのシリーズだけでなく、先に挙げたタイトルの大半が出されていたのではないだろうか。しかし「素人の悲しさで売捌の方法が判らず、残本が沢山できる」次第となり、『ホトトギス』経営の困難と相乗して、俳書堂も同様に追いつめられ、「その出版の仕事だけを他の者に譲り」、それによって、『ホトトギス』を「どうかかうか発行をつゞけ」ることができたように思われる。

 俳書堂の出版を譲渡されたのは籾山に他ならないのだが、彼は慶応義塾の理財科出身であり、著作権の問題、及び『俳句の研究』の住所に見える日本橋区小舟町の海産物問屋籾山家の養子だったことからすれば、俳書堂の既刊在庫と著作権もともども譲受したと考えて間違いないだろう。もちろんその譲受金額はたとえ一時期にしても虚子の家計を助けるものであると同時に、『ホトトギス』の続刊を支えたとも考えられる。

 『吾輩は猫である』の『ホトトギス』連載は明治三十八年一月からで、その九月に俳書堂は籾山に譲渡されていることからすれば、漱石の処女作が翌年八月に完結し、続けて『坊ちゃん』が連載となったのも、そのことと無縁ではないように思われる。

 f:id:OdaMitsuo:20210628203552j:plain:h120(『ホトトギス』)

 なお虚子のモデル小説に関しては、『近代出版史探索Ⅲ』414で取り上げていることを付記しておく。


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